「教会便り」2012年1月号より

「なんでもないようなことが幸せ」
 昔、THE 虎舞竜というバンドの「ロード」いう曲が流行りました。
 その歌詞の中に「なんでもないようなことが幸せだったと思う」という言葉が何度も出てきます。
 この歌詞の背景となっているのが、このバンドのファンであった女性の交通事故死で、ここから作詞者は何ごともなかった当たり前の日常が如何に幸せであったかということを歌詞に込めているのでしょう。
 ここで「なんでもないようなこと」というのは、言葉を換えて言うと、「何も起きず、普通に、淡々と過ぎる日常」(小林正観氏)ということになるでしょう。

「何も起きないことの幸せ」
 先述の心理学者の小林正観氏は、『何も起きないことがどれほど幸せであるか』ということに、私たちはなかなか気がつきません。毎日が、淡々と平凡に過ぎていくことが、実は『幸せの本質』なのです。
 幸せというのは、何か特別なことが起きることではありません。何も起きないことが幸せの絶対的な本質です。
 幸せとは、いいことが起きるとか、楽しいことが起きるのではなくて、自分にとって、いわゆる面倒なこと、大変なこと、汗をかかなくてはいけないこと、神経を使わなくてはいけないことが、何も起きないこと。それこそが最大の奇跡です。
 (だから)何も起きていないということは、自分にとって辛かったり大変だったりすることが起きていないという、とんでもないことを起こしてくれている毎秒毎秒の連続なのです。」と述べています。

「平和を与えるイエス様」

 聖書においては「何でもないようなこと」や「何も起きず、普通に、淡々と過ぎる日常」というのは、「平和」と表現されています。
 この「平和」というのは、「争いのない状態」だけではなく、「無事、平安、健康、安心」という意味を含んでいます。
 そこからイエス様は「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ14:27)と言われています。
 イエス様は私達が事故や危険、トラブルに遭わないこと、つまり、「平和」を常に与えようとされていますので、私達は「何もないこと」「何も起きない」「平和」の幸せに気づき、感謝していきたいものです。

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クリスマス

クリスマス礼拝の写真です。

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クリスマス・イブ礼拝

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クリスマス深夜ミサ(礼拝)

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クリスマス聖餐式

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クリスマスと元旦のご案内

 

 今日ダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになった(ルカによる福音書2章11節)
 クリスマスの時期が近づいて参りました。皆様、如何お過ごしでしょうか。
 イエス様はベツレヘムの馬小屋で私たちをお救いになるためにお生まれになりました。どうぞ、ご家族、ご知人、ご友人をお誘いくださり、共に救い主イエス様の誕生を喜び祝い、共に聖餐式(ミサ)の恵みに預かりましょう。

12月24日(土)
  午後7時 クリスマスイブ礼拝・お茶等
12月25日(日)
  午前0時 降誕日聖餐式(深夜ミサ)
  午前10時半 クリスマス聖餐式・祝会

   礼拝後に祝会、プレゼント交換をいたします。
   500円前後のプレゼントをお持ちください。
   また、やみ汁の中に入れる材料をお持ちくだされば幸いです。

1月1日(日) 午前10時半 新年礼拝 聖餐式


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聖堂から続く階段に、イルミネーションをしました。

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「教会便り」2011年12月号より

「コップに半分の水」

 「コップに半分の水」という有名なたとえがあります。
 コップの中に水が半分入っていて、それを「もう半分しかない」と見るか、「まだ半分ある」と見るかで、心境やその後の人生はかなり違ってくるというたとえです。
 ここで「半分しかない」と思う人は当然、不満に思い、逆に「半分もある」と思う人は「ありがたい」と思い、感謝することでしょう。

「『ない』と『ある』という人生」

 産業カウンセラーの野坂礼子氏は、
「『あれがない、これが足りない』と思っていると、『ない、ない』という言葉をたくさん使うようになります。すると言葉どおりに、ますます何もかも足らない人生を送ることになります。
 『あれがある、これもある。こんなにいっぱいある。ありがたい!』と、あるものを数えるのがクセになったら、心が満たされていきます。
 でも、『あれがない、これが足りない』と思っている人は、 やがて『あの人は能力があるけど私は……』『あの人は75点だったけど私は90点、15点勝った!』というように、 他人と比べる引き算の人生になります。すると、いつも勝ち負けの世界にいて、疲れてしまいます。
 でも、『あれもあって、これもある』と考える人は、言葉どおり必要なものはみんなある、足し算の人生になります。
 だからいつも安心して、笑顔なのです。『ある、ある人生』は、まず『ありがとう』を口癖にすることから始まります」
と述べています。

「あるものを祝福して下さる神様」

 日本聖公会の中部教区の渋澤一郎主教様も山陰伝道区修養会のご講話の中で、「イエス様は『今のある自分』『所有しているもの』を『持って来なさい』と私達を招いて下さっている。その私達の持っているもので、イエス様は祝福され、そこからイエス様の働きが始まる。
 私達は『あれしかない』『これしかない』と嘆くが、しかし、私達の持っているもの、有るものをしっかり見つけること、これだけあると思うこと、『これがある』『これだけある』という信仰、あり方が大切です」というお話しをされました。
 私達は「…しかない」から、「…もある」「これだけある」という発想の転換、イエス様がそのあるものを祝福して下さるという信仰を持って、前進していきたいものです。

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「教会便り」2011年11月号より

「当たり前 3」

 以前、月報で感謝の反対語に当たる「当たり前」ということを書かせて頂きました。
 今月号も、特に私達の日常で当たり前になっているものを取り上げてみたいと思います。

「当たり前の家・食べ物・家族」

 東日本大震災で避難した少女がインタビューで、「お父さんはまだみつかっていない。どれだけ今まで裕福だったかわかりました。家もなくなったし、帰る家もなくなったし、ご飯もないし、家族もまだいないし、どれだけ今まで幸せだったか、というのが今回よくわかりました」と気丈に語っていました。
 このことは家があって、ご飯があって、家族がいることが至福なことということを物語っているでしょう。

「『当たり前』の詩」

 骨肉腫の為に右足を膝から下で切断、後に肺に悪性腫瘍が転移したことにより、若くしてこの世を去った井村和清医師が、「当たり前」という詩を遺されています。

あたりまえ
こんな素晴らしい事をみんなは何故、喜ばないのでしょう
あたりまえである事を
お父さんがいる
お母さんがいる
手が2本あって、足が2本ある
行きたい所へ自分で歩いてゆける
手を伸ばせば何でもとれる
音が聞こえて声がでる
こんな幸せはあるでしょうか
しかし誰もそれを喜ばない
あたりまえだと笑って済ます
食事が食べられる
夜になると、ちゃんと眠れ、そして又朝が来る
空気を胸いっぱいに吸える
笑える、泣ける、叫ぶ事ができる
走りまわれる
みんな、あたりまえのこと
こんな、素晴らしい事を、みんなは決して喜ばない
そのありがたさを知っているのは
それを無くした人達だけ
何故でしょう
あたりまえ

 私達は目が見えて、耳が聞こえ、声が出て、呼吸ができ、睡眠がとれて、感情があって、家があって、ご飯が食べられて、家族がいて、朝・夕を迎えることができたこと等々、「あたりまえだと笑って済ます」のではなく、「素晴らしい事」と思い、日々、喜び、感謝したいものです。

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山陰伝道区修養会

 2011年10月22日、23日に浜田市で山陰伝道区修養会が開かれました。
 中部教区主教の澁澤一郎師父を講師として招き、22日に講和、23日に聖餐式の説教をしていただきました。

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「教会便り」2011年10月号より

「請求書の祈りと領収書の祈り」

 宗教評論家で仏教の本を多数書いている、ひろさちや氏は、以下のような幼少時の体験を語っています。
 自分が幼児の時、祖母から、「ほとけ様を拝むときは、お願いごとをしたらあかんで。“ありがとうございました”と拝まなあかんのや」と言われたことがあるそうです。
 また小学生の時には祖母から、「今日、どないほとけ様を拝んできたんか?」と問われた時に、「あんな、おばあちゃん、きょうは算数の試験があんねん。そやから、百点とらしてくださいと拝んできた」と言いました。
すると祖母は「あかんやないか。あれほどお願いごとをしたらあかん言うてあったのに。もう一度、拝み直してきなさい」と説かれ、そこで彼は祖母に叱られて、「ほとけ様、ただいまのお願いは取り消します。ありがとうございました」と拝み直しました。
 この経験からひろさちや氏は、「ああしてください」「こうしてください」と、人間の勝手な注文をつける祈りが請求書の祈りで、反対にいま、現在、私が生かされている現実に、「ありがとうございます」と感謝の祈りをささげるのが領収証の祈りであると語っています。
 さて、この話は仏教での請求書・領収書の祈りですが、この祈りと同じことはキリスト教の神様への祈りにも当てはまるのではないでしょうか。
 つまり、私達が神様に対して、「富やお金を増やしてほしい」、「地位や名誉を与えてほしい」等々と要求の祈りばかりとなっている時には、「請求書の祈り」となっていて、反対に神様に対して、まずは今日、一日生かして頂いたこと、様々な恵み・導きに「ありがとうございます」と感謝する祈りの時には「領収書の祈り」と言えるでしょう。

「領収書の祈りからはじめる」

 イエス様は何かの行動をされる前には、「感謝の祈りを唱えてから」(ヨハネ6:11)、また「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします」(同上11:41)という感謝の祈り、つまり、領収書の祈りを捧げられていることがわかります。
 私達は日常生活での祈りが請求書の祈りになってしまいがちですが、まずは、神様に対して、「あれもしてくださいました」「これも与えてくださいました」という感謝の祈りをして、その次に神様に請求書の祈りをしていきたいものです。

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神戸教区の中村主教が浜田へ来られました

9月11日、神戸教区の中村主教が浜田キリスト教会へ来られ、礼拝を司式されました。

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「教会便り」2011年9月号より

「笑っているからいいことがある」

 現在、フリー・アナウンサーで、エッセイストの福田純子さんは、女子アナウンサー時代に大変、有名人になって大活躍するようになった時、ある人から「あなたはアナウンサーで人気があって、お金もいっぱい稼いでいる。楽しいことばかりだからいつも笑っていられる。私には嫌なことばかりおこるから、あなたのように笑っていられない」と言われたそうです。
 しかし、福田さんは、「笑っているからいいことがあるんです」と答えたそうです。
もちろん、最初から福田さんは、笑っていられたのではなく、笑えない時も時間をかけて笑顔にして、笑っていくようにしたそうです。
 そのようにしていく内に、彼女は「笑っているからいいこと」が起こるのであって、「いいことがあるから笑う」ということでは、いつまでたっても笑うことができないという現実に気がついたそうです。

「笑い・感謝するから幸せになる」

 上述と同じことを、アメリカの哲学者・心理学者ウィリアム・ジェームズは「わたしたちは幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ」、また、フランスの哲学者アランも「幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだ」と語っています。
 このことと違った視点で、イエローハット社長の鍵山秀三郎氏は「人は幸せだから感謝するのではない。感謝するから幸せになれる」と述べています。

「神様のお陰であると感じて喜ぶ」

 聖書においては、「主において喜びなさい。…これは…あなたがたにとって安全なことなのです」(フィリピ3:1)と記されています。
 ここで、「神様において、喜ぶことは安全」というのは、自力によって喜ぶのではなく、「神様によって」、つまり、「神様のお陰によって」という、神様に対して感謝を表すお陰様の気持ちで喜ぶことが安全であるということを言っています。
 一般的に私達は楽しいこと、幸せなこと、感謝すべきことがあって初めて、笑い、喜び、感謝するという考え方が主にあるのではないかと思います。
 しかし、順番は逆で、神様のお陰であると感じて、「笑い」「喜び」「感謝する」から、「いいことがある」「幸せになる」「安全」であるという真実を覚えたいと思います。

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「教会便り」2011年8月号より

「幸せはどこに」

 幸せはどんな時と人に質問した時には、人によって、様々な答えが返ってくるのではないかと思います。
 「お金持ちになった時」「地位・名誉が与えられた時」「仕事を成功させた時」「重荷から解放された時」「夢が叶った時」「人に認められた時」等などといろいろな考えが出てくるでしょう。

「今は亡きモリー教授」

 内難病のALS(筋萎縮性索硬化症)に侵されているモリー教授の下に、大学時代に教授を恩師としていたスポーツ記者が、「先生、もし申し分なく健康な日があったら何をしますか?」と聞いたそうです。
 その時に教授は「そうだな…朝起きて体操して、ロールパンと紅茶のおいしい朝食を食べて、泳ぎに行って、お昼に友達を呼ぶ…」と答えました。
 死の間近にあったモリー教授にとって、健康な時が戻った時に望むことは、日常で誰もがする、ごく当たり前のこと、ごく普通のこと、何ら変哲のない、普通の日常の生活ということだったのです。

「子どもたちの夢」

 限られた命の時間を生きている小児ガンの病室の子どもたちの夢は、
「おすしが食べたい」
「自分の家でゆっくりしたい」 
「お外で遊びたい」
「大人になりたい」
「普通の生活がしたい」
「海が見たい」
「元気になりたい」
などだそうです。
 この子どもたちにとっては、私達が日常であまりにも当たり前に送る生活が夢であるのです。

「本当の幸せは日常生活にある」

 東日本大震災後、読売新聞の投書欄に、ある中学生の女の子が、「ご飯を食べ、おふとんの中で寝ることができる。お風呂に入ることができる。当たり前の日常生活が本当はとても幸せなことだと改めて感じています」と書いていました。
 使徒聖パウロもフィリピの信徒への手紙4:11で「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」と記されています。
 ここから本当の幸せというのは、どこか遠くにあるものではなく、ありきたりの日常生活にあること、そして、普通の生活を送れるということは夢のような事で、感謝であることを私達も習い、覚えたいものです。

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