「教会便り」2012年5月号より

「人が通らなければならない道」

 人が必ず、通らなければならない道は生まれること、死ぬことの2つと言えることができるのではないかと思います。
 またそのこと以外でも、長い人生を送る中で、人が通らなければならない道は、苦難の道・十字架の道と言えるのではないでしょうか。
 具体的に苦難・十字架の道とは、痛み、病気、また人から受けるものとして、無理解、陰口、悪口、批判、憎悪、侮辱、屈辱、蔑視、裏切り、陰謀、排斥等々と言えるでしょう。
 また神様からの試練としては、神様の祈りに対する沈黙、神様不在の苦しみや孤独等と言えるでしょう。

「イエス様がすでに通った道」

 私達が通った道は、もうすでに救い主イエス様が通られています。
 そのことについては、「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」(イザヤ5:1)という痛み・病、「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」(ヨハネ13:9)という弟子の無理解、「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」(ルカ7:28)という陰口・悪口、「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」 (ルカ15:2)という批判を受けられているからです。
 またイエス様が人から受ける憎悪、侮辱、屈辱、蔑視、裏切り、陰謀、排斥やそれ以上の受難、又、神様の祈りに対する沈黙、神様不在の苦しみや孤独等を体験されたことは新約聖書で、詳しく記されています。

「天国への階段を上っている」

 それでは何故、私達は同じようにイエス様がたどられた道を通っているのでしょうか。
 それについては、イエス様の語られる「わたしは道で…わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)というみ言葉が一つの答えとして示されていると思われます。
 つまり、イエス様の道、イエス様の歩まれた道を通らなければ、誰も父なる神様のもと、つまり、天国に行くことができないので、誰もがイエス様がたどられた道を通ることになっていると考えられます。
 そこから、もし、私達が過去やまた現在において、イエス様のたどられた道を通っているとすれば、それは正に天国への階段に一歩一歩、上っているということになるのではないでしょうか。

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「教会便り」2012年4月号より

「事実(現象)と感情」

 世の中では事実・現象と自分の感情を一体だと思っている人が多いのではないでしょうか。例えば雨が降った場合、その雨という事実、現象に対して、心が沈む、嫌な気持ちになることがセットになっている、また一体化しているということがあることでしょう。
 しかし、本来は雨という現象・事実があるだけで、雨そのものは良いも悪いも無く、雨の現象はゼロであることがわかります。

「現象と感情は別々のもの」

 そこから心理学者の小林正観氏は「ほとんどの人は、現象と自分の感情が一体だと思っているかもしれません。
 よく、『上司に怒られたので、とても落ち込んでいる』という人がいますが、上司が怒ったことと、自分が落ち込むことは別です。『上司が怒ったこと』という現象と、悲しい、辛いという感情が別々に存在しています。
 もともと、現象そのものに、色はついていません。私たちが勝手にその現象に感想をつけて、『嬉しい』『悲しい』という色をつけているにすぎません。
 目の前の現象に、『嬉しい』『悲しい』という色をつけるのは自分なのです。その現象をどう受け止めるかは、自分次第ということです」と語っています。

「事実(現象)と感情を分ける」

 この「現象」と「自分の感情」を「一体」としていないという最たる例が旧約聖書の詩編119編71節の「卑しめられたのはわたしのために良いことでした」(新共同訳)。「苦しみにあったことは、わたしに良い事です」(口語訳)。また、「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした」(新改訳)というみ言葉です。
 この詩編の詩人は、何らかの理由で、人から卑しめられ、また苦しめられるという事実があったのですが、しかし、詩人はその事実と自分の感情を一体化せず、別々のものとして捉え、感情は「良いこと」「幸せ」と色づけしたのでした。
 もちろん、このような捉え方は簡単ではなく、非常に難しいですが、しかし、目の前の事実・現象を色づけしないで、事実・現象と自分の感情を分ける時には、人生の展開が全く違ってくると言えるでしょう。
 私達は「事実・現象」と「感情」を分ける訓練をしたいものです。

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「東日本大震災1周年記念特祷」

東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)の祈り
2012年3月11日 日本聖公会主教会
「東日本大震災1周年記念特祷」

苦しみ悩みのうちにある人びとを常に支えてくださる主よ、東日本大震災の発生から1年のこの日、すべての逝去者と被災者を覚えて祈ります。
大震災によって世を去ったすべての人が、慈しみ深い主のみ腕に抱かれ、いこ憩うことができますように。
また、地震と津波、放射能汚染により、愛する人を失い悲しみと孤独のうちにある人びと、離散させられた人びと、今もなお弱い立場におかれている多くの人びとを、その傍らに立ってお支えください。そして震災復興のためのすべての働きが、痛みの多いこの地上に希望をもたらすものとなりますように。
慰めの主よ、わたしたちがこれらのことを憶え続け、困難を負って生きる人びとと共に、主のみ跡に従って歩むことができますように、この祈りを主イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。     アーメン


「東日本大震災のための祈り」

苦しみ悩みのうちにある人びとを常に支えてくださる主よ、東日本大震災のすべての逝去者と被災者を覚えて祈ります。
大震災によって世を去ったすべての人(ことに――)が、慈しみ深い主のみ腕に抱かれ、憩うことができますように。
また、地震と津波、放射能汚染により、愛する人を失い悲しみと孤独のうちにある人びと、離散させられた人びと、今もなお弱い立場におかれている多くの人びと(ことに――)を、その傍らに立ってお支えください。そして震災復興のためのすべての働きが、痛みの多いこの地上に希望をもたらすものとなりますように。
慰めの主よ、わたしたちがこれらのことを憶え続け、困難を負って生きる人びとと共に、主のみ跡に従って歩むことができますように、この祈りを主イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。     アーメン


神戸教区の活動については、小名浜聖テモテ・ボランティアセンターのブログ(http://onahama.jpn.org/)をご覧ください。

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聖週・復活祭のご案内

主の平和

 日増しに春めいて参りました。ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。
 さて、復活日(イースター)が近づいて参りました。聖週、復活日の日程は以下のようになっています。

4月6日(金)1400分 聖金曜日(受苦日)礼拝

4月8日(日)1030分 復活日(イースター)聖餐式・祝会

皆様でイエス様の復活を共に喜び、祝いましょう。どなたでも参加できます。どうぞ、ご気楽にお越しくださいませ。

牧師マルコ平野一郎 

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「教会便り」2012年3月号より

「手織りの刺繍」

手織りの絨毯、刺繍は、織っている時は裏側から織るので表は見えず、織り終わって、ひっくり返してはじめて表の模様が分かるそうです。
これと同じように人生というのも正に刺繍の裏側を織っているようなもので、人生をひっくり返してみると、人生の表の模様を見ることができるのではないでしょうか。

「『人生の刺繍』の詩」

刺繍のことをかんがえてごらん
どんなすばらしい作品であっても
裏から見ると模様がわかりません
裏から見てこの色がどうしてここにひっぱってあるのか
あの色の糸がなんのためにそこにあるのか  見当がつきません
色々な糸が無意味にさえ見えます
でも、表から見ると、いっぺんにわかります
このきれいな花弁の模様ができるために あの糸があそこにあったのか
この葉っぱを作るため あの糸が必要だったのか、と驚くのです
私たちの人生も同じです
今は裏からしか見えません
どうしてこのできごとがあったのか
なぜあのつらい思いをしなければならなかったのか
何のためにあの苦しみ、病気や障害が与えられたのか
多くの場合、今はわかりません
今は裏しか見えないため、「なぜ?」という疑問に答えられないことが
たくさんあります
天の御国へ行った時 はじめて自分の人生の刺繍を表から見るようになるのです
その時は、神様のすばらしいご計画や目的を知り ただ驚きと喜びのみです

「人生をひっくり返して見ると」

フランスのカトリック司祭のピエール・テイヤール・ド・シャルダンも、「人生とは、美しい刺繍を裏から見ているようなものだ。その模様が何を意味しているか、そのままでは分からないが、それを表から見られるようになったとき、その意味と美しさが分かる」と語っています。
 聖書でも「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(Ⅰコリント13:12)と語られています。
私達の人生は一見、苦しみや悲しみの模様しかないように見えるかもしれません。しかし、私達の人生をひっくり返して見ると、美しい模様となっているのではないでしょうか。

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「教会便り」2012年2月号より

「聖イグナチオの考え方」

 イエズス会を創設した聖イグナチオは、「起こってくる物事はすべて中立だ。すべて良いも悪いもない。あなたがそれを良いと見るか、悪いと見るかによって、物事は良くなったり悪くなったりする」と語っています。
 この考え方については、大きな事件・事故・災害などに関して、納得できないと思われますが、しかし、日常で起きる物事、出来事、事柄について、当てはめることができるのではないでしょうか。

「捉え方一つで良くも悪くもなる」

 たとえば、雨については、一般的には晴れの日より悪い日と映り、嫌な気持ちになるという人が多いのではないでしょうか。
 しかし、雨が降らず、日照りが続く地域の人たちにとっては、雨が降ると、正に恵みの雨となり、雨は良い日であると言えるでしょう。
 事実、ある渇水対策の本部長は、日照り後の雨は「本当に宝物が降ってくるよう」なもので、「雨がイヤなものだとは全く思わなかった」と語っています。

「物事を良いと見る捉え方」

 この「物事を良いと見るか、悪いと見るかによって、物事は良くなったり悪くなったりする」ということの最たる例として、作家の三浦綾子さんが挙げられます。
 彼女は、結核、脊椎カリエス、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病など、多くの持病を持っていました。
 しかし、そのような状況にも関わらず、三浦綾子さんは「こんなに多くの病気にかかって、神様は自分をえこひいきしているのではないかと思います」と語っています。
 彼女はそのような多くの病気や患いを、神様がえこひいきして愛してくださっているという捉え方、見方をして、後には彼女は感謝の気持ちまでも芽生えています。
 このような彼女の捉え方は、正に「物事を良いと見ることによって、物事は良く」なるということを立証していると言えるでしょう。
 もちろん、このように捉えることは非常に難しいですが、しかし、起こってくる物事、それがたとえ不幸、不運、災い、逆境などに見えたとしても、「物事を良いと見る」捉え方をすることで、心の風景や世界観が変わるのではないでしょうか。
 私達は「物事を良いと見ることによって、物事は良く」なることを覚えて、実践していきたいものです。

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「教会便り」2012年1月号より

「なんでもないようなことが幸せ」
 昔、THE 虎舞竜というバンドの「ロード」いう曲が流行りました。
 その歌詞の中に「なんでもないようなことが幸せだったと思う」という言葉が何度も出てきます。
 この歌詞の背景となっているのが、このバンドのファンであった女性の交通事故死で、ここから作詞者は何ごともなかった当たり前の日常が如何に幸せであったかということを歌詞に込めているのでしょう。
 ここで「なんでもないようなこと」というのは、言葉を換えて言うと、「何も起きず、普通に、淡々と過ぎる日常」(小林正観氏)ということになるでしょう。

「何も起きないことの幸せ」
 先述の心理学者の小林正観氏は、『何も起きないことがどれほど幸せであるか』ということに、私たちはなかなか気がつきません。毎日が、淡々と平凡に過ぎていくことが、実は『幸せの本質』なのです。
 幸せというのは、何か特別なことが起きることではありません。何も起きないことが幸せの絶対的な本質です。
 幸せとは、いいことが起きるとか、楽しいことが起きるのではなくて、自分にとって、いわゆる面倒なこと、大変なこと、汗をかかなくてはいけないこと、神経を使わなくてはいけないことが、何も起きないこと。それこそが最大の奇跡です。
 (だから)何も起きていないということは、自分にとって辛かったり大変だったりすることが起きていないという、とんでもないことを起こしてくれている毎秒毎秒の連続なのです。」と述べています。

「平和を与えるイエス様」

 聖書においては「何でもないようなこと」や「何も起きず、普通に、淡々と過ぎる日常」というのは、「平和」と表現されています。
 この「平和」というのは、「争いのない状態」だけではなく、「無事、平安、健康、安心」という意味を含んでいます。
 そこからイエス様は「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ14:27)と言われています。
 イエス様は私達が事故や危険、トラブルに遭わないこと、つまり、「平和」を常に与えようとされていますので、私達は「何もないこと」「何も起きない」「平和」の幸せに気づき、感謝していきたいものです。

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クリスマス

クリスマス礼拝の写真です。

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クリスマス・イブ礼拝

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クリスマス深夜ミサ(礼拝)

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クリスマス聖餐式

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クリスマスと元旦のご案内

 

 今日ダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになった(ルカによる福音書2章11節)
 クリスマスの時期が近づいて参りました。皆様、如何お過ごしでしょうか。
 イエス様はベツレヘムの馬小屋で私たちをお救いになるためにお生まれになりました。どうぞ、ご家族、ご知人、ご友人をお誘いくださり、共に救い主イエス様の誕生を喜び祝い、共に聖餐式(ミサ)の恵みに預かりましょう。

12月24日(土)
  午後7時 クリスマスイブ礼拝・お茶等
12月25日(日)
  午前0時 降誕日聖餐式(深夜ミサ)
  午前10時半 クリスマス聖餐式・祝会

   礼拝後に祝会、プレゼント交換をいたします。
   500円前後のプレゼントをお持ちください。
   また、やみ汁の中に入れる材料をお持ちくだされば幸いです。

1月1日(日) 午前10時半 新年礼拝 聖餐式


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聖堂から続く階段に、イルミネーションをしました。

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「教会便り」2011年12月号より

「コップに半分の水」

 「コップに半分の水」という有名なたとえがあります。
 コップの中に水が半分入っていて、それを「もう半分しかない」と見るか、「まだ半分ある」と見るかで、心境やその後の人生はかなり違ってくるというたとえです。
 ここで「半分しかない」と思う人は当然、不満に思い、逆に「半分もある」と思う人は「ありがたい」と思い、感謝することでしょう。

「『ない』と『ある』という人生」

 産業カウンセラーの野坂礼子氏は、
「『あれがない、これが足りない』と思っていると、『ない、ない』という言葉をたくさん使うようになります。すると言葉どおりに、ますます何もかも足らない人生を送ることになります。
 『あれがある、これもある。こんなにいっぱいある。ありがたい!』と、あるものを数えるのがクセになったら、心が満たされていきます。
 でも、『あれがない、これが足りない』と思っている人は、 やがて『あの人は能力があるけど私は……』『あの人は75点だったけど私は90点、15点勝った!』というように、 他人と比べる引き算の人生になります。すると、いつも勝ち負けの世界にいて、疲れてしまいます。
 でも、『あれもあって、これもある』と考える人は、言葉どおり必要なものはみんなある、足し算の人生になります。
 だからいつも安心して、笑顔なのです。『ある、ある人生』は、まず『ありがとう』を口癖にすることから始まります」
と述べています。

「あるものを祝福して下さる神様」

 日本聖公会の中部教区の渋澤一郎主教様も山陰伝道区修養会のご講話の中で、「イエス様は『今のある自分』『所有しているもの』を『持って来なさい』と私達を招いて下さっている。その私達の持っているもので、イエス様は祝福され、そこからイエス様の働きが始まる。
 私達は『あれしかない』『これしかない』と嘆くが、しかし、私達の持っているもの、有るものをしっかり見つけること、これだけあると思うこと、『これがある』『これだけある』という信仰、あり方が大切です」というお話しをされました。
 私達は「…しかない」から、「…もある」「これだけある」という発想の転換、イエス様がそのあるものを祝福して下さるという信仰を持って、前進していきたいものです。

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