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2010年6月

2010年6月18日 (金)

「教会便り」(10年2月から)

(2010年2月の「教会便り」、【牧師室から】を転載します)

「中国で修行した二人」  

昔、二人の僧が中国に仏法を学ぶために、旅に出ました。途中、野原の中の一軒のあばら家で旅の疲れを癒すことにしました。翌朝、快適な眠りから覚めたら、そこは風雨にさらされた人骨が散らばった墓のあとでした。次の夜は二人ともうなされて眠ることもできませんでした。一人の僧は、「人骨を見て悩まされるようでは、まだ自分は修行が足りない。中国へ行って徹底的に修行をしてくる」と言って、旅立っていきました。もう一人の僧は、散らばった人骨の中に立って、「何も知らないうちは、あんなにやすらかに眠れたものを、墓のあとだと知ったがために眠れない自分。すべての鍵は自分の中にある」と悟って、中国へは行かず、自分の心を見つめることこそ修行であると確信したのでした。

「心の持ち方」

上述の後者の僧の言う「すべての鍵は自分の中にある」ということは、外的なもの、現象、環境、状況などが究極的には心の安定・不安定を左右するのではなく、状況をどう捉えるかで幸にも不幸にもなるということを教えていると考えられます。
そこから心理学博士の小林正観氏は、「『私』がその現象を幸せだと思ったら、その瞬間に幸せなことになり、一方でその現象について不幸だと思ったら、思った瞬間に不幸になるわけです。
(このように)『私』の気分がひとつの現象を『幸』にも『不幸』にしてしまうのです。事実や現象はひとつ。ただ、それを受け止める側の『心』がその現象の価値を決めている」と述べています。

「神の国はあなたがたの中にある」

イエス様も「神の国は実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:21 口語訳)と言われています。
ここでは人間の心、内面に焦点が当てられていて、神の国は人間の心の持ちようにかかっていると解釈することもできます。
そのことは拡大解釈すれば、心の在り方・心の有り様によって、心の中が神の国、即ち、天国にもなれば、地獄にもなると言うことが示されていると考えられないでしょうか。
ここから現象や環境、状況、境遇に対して、幸・不幸にするか、また心を天国・地獄にするかは、私達自身にかかっていると言えるでしょう。
私達は心を天国にするための心の捉え方、見方をしていき、「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚え」(フィリピ4:11)たいものです。


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