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2011年4月

2011年4月27日 (水)

東日本大震災の祈り

慈しみ深い神さま、東日本大震災によって家族・友人を失った人びと、離散させられた人びと、住まいを失った人びと、病のうちにある人びとに慈愛の手を指し伸べてください。どうか、大震災によって悲しみ、悩み、苦しみ、孤独に陥った人びとを慰め、生きる勇気と希望をお与えください。
今、避難生活を余儀なくされている人びとが互いに助け合い、励まし合い、避難者に必要な保護が確保されますようにしてください。
大震災によって命を失った人びとの死を悼みます。どうか、愛する人の死によって、悲しむ人たちにみ力を与えてください。すべての憂い、悲しみを主にゆだね、あなたの愛の慰めのうちに生きることができますように。
これらの祈りを主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。
アーメン

東日本大震災の神戸教区活動については、
神戸教区ホームページ(http://nskk.org/kobe/index.html
神戸教区東日本大震災救援本部の活動ブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/nskkkobe311
をご覧ください。

「教会便り」2011年5月号より

「イ・チソンさん」

 韓国人のイ・チソンさんという女性がおられます。彼女は大学生の時、交通事故により全身の55%に大火傷を負い、第3級の身体障害者に認定されました。
 彼女は交通事故後、奇跡的に一命を取り留めますが、しかし、8本の指を切断し、幾度もの手術、激しい痛みと治療に悩まされる日々を過ごしました。
 さらに彼女は過去の容姿端麗であった元の身体を取り戻すことはできず、鏡に映る自らの姿を見るだけで恐怖に怯え、何度も自分を殺してもらうよう家族に頼んだそうです。
 そんなある日、彼女は痛みの激しい日は、壁にかかっている十字架を見つめて「イエス様は、私ほど大変ではなかったのではないか。何日か経てば終わったし、火傷はしなかったし…」と嘆いたそうです。
 その後、あるイースターを迎える受難週の時に、彼女はイエス様が受けられた苦しみを思いながら祈っていると、彼女としてもう二度と思い出したくないような場面が、映画のフィルムのように目の前に映し出されました。
 彼女はただ泣くしかなく、泣いていると、イエス様が声無き声で「チソン、お前が経験したその肉が裂かれるような痛みを私は知っているよ。お前が経験した恥ずかしさや痛みのすべてを私は知っている」と語りかけてくださいました。
 彼女はその時から救われて、変わり、忌まわしい過去を乗り越え、その後、後悔するどころか感謝している人生になったそうです。

「痛みは、全部私が知っている」

 私達も人生の中で災いや不幸が突然、襲いかかり、絶望し、悲しみ、悩むことがあります。その時には私たちもチソンさんと同じように「イエス様は、私ほど大変ではなかったのではないか。何日か経てば終わったし」と思うこともあるかもしれません。
 しかし、イエス様はご生涯や十字架上で私たちが日常生活で体験する悩み、悲しみ、苦しみ、痛みのありとあらゆる種類を体験されて、イエス様は私たちに対しても、「全部私が知っているよ。経験した恥ずかしさや痛みは、全部私が知っている」と語られて、慰めてくださるのではないでしょうか。
 私達は私達の「苦難を常にご自分の苦難とし」(イザヤ63:9)、私たちのすべての「痛みを知った」(出エジプト3:7)神様がおられることを覚えたいものです。

2011年4月14日 (木)

聖週・復活日のご案内

主の平和

日増しに春めいて参りました。ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。
さて、復活日(イースター)が近づいて参りました。今週の聖週、復活日の日程は以下のようになっています。

◎4月22日(金)14時00分 聖金曜日(受苦日)礼拝

◎4月24日(日)10時30分 復活日(イースター)聖餐式・祝会

皆様でイエス様の復活を共に喜び、祝いましょう。どうぞ、ご気楽にお越しくださいませ。

牧師マルコ平野一郎 

2011年4月 1日 (金)

「教会便り」2011年4月号より

「愛なる神様の不在」

 先月に東北関東で巨大地震があって、日に日に多くの犠牲者が出ています。
このような時に愛の神様は何故、見捨てられるのか、何故、助け救ってくださらないのかという疑問が出てくるのではないかと思います。
 同じようにマザー・テレサでさえも一時的に、インドで貧困層のための活動時に、ある牧師に「あなたはイエスの愛を受けている。私はといえば、むなしさと沈黙にさいなまれている。見ようとしても何も見えず、聞こうとしても何も聞こえない」という思いになったこともありました。
 おそらく、マザー・テレサはインドで貧困層の人々が次々と亡くなってしまう現実に対して、一時的に愛の神様への疑念に心が揺れたのでしょう。

「足跡の詩」

 「足跡」の詩で、「私の人生で最も苦しかったとき・・・わたしが最もあなたを必要としていたときに、どうしてわたしをお見捨てになったのか」という問いに対して、神様は「わたしの大事な大事な子よ、わたしはあなたを愛しており、決してあなたを見捨てることはありません。あなたが試みと苦難の中にあったとき、あなたがたった一人の足跡しか認めなかったとき、それは、わたしがあなたを背負って歩いていたときだったのです」と記されています。

「神様はここにおられる」

 アウシュヴィッツ収容所から奇跡的に生還したエリ・ヴィーゼルは、当時のことを回顧して語っています。  
 「三人の死刑囚は、一緒にそれぞれの椅子に登った。三人の首は同時に交索の輪の中に入れられた。…『神様はどこだ。どこに居られるのだ』、私の後ろで誰かがそう尋ねた。収容所長の合図で三つの椅子が倒された。全収容所内に絶対の沈黙・・・私達は涙を流していた。…私の後ろで、さっきと同じ男が尋ねるのが聞こえた『いったい神はどこに居られるのだ』。そして私は、私の心の中で、ある声がその男にこう答えているのを感じた『どこだって。ここにおられる…ここに、この絞首刑台に吊るされておられる』」と。
 私達は苦難や苦境、困窮や悲惨な時に神様に疑念を持ってしまいがちですが、しかし、その時には神様は「私達を背負って歩いて」おられること、また最も神様が不在と思われる時に、神様は「ここにおられる」という現実を覚えたいものです。

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