« 2011年4月 | トップページ | 2011年7月 »

2011年6月

2011年6月28日 (火)

「教会便り」2011年7月号より

「当たり前 2」

 以前、月報で感謝の反対語に当たる「当たり前」ということを書かせて頂きました。
 今月号も、特に私達の日常で当たり前になって、気づきにくい自然のものを取り上げてみたいと思います。

「当たり前の水と空気と土」

 福島第1原発から西に約50キロの福島県三春町に住居を構えている臨済宗の僧侶の玄侑宗久氏は、「震災前はまったくなじみのなかった放射線と接することになり、毎日風向きや放射線のモニタリング値を気にするようになりました。それまで、水道水や空気がおいしくて安全なのは当たり前だと思っていましたが、震災後は貴重な存在だったことに気付かされました」と述べています。
 ここでさらに、土壌、土ということも付け加える必要があるかと思いますが、私達は水と空気、土は綺麗なもので、安全・安心という認識しかもっていないかもしれません。
 しかし、放射能漏れによって、どれだけ水と空気、土が有り難いものであるかと言うことを心の底から思った方も少なくはないと思います。

「当たり前の太陽」

 仮に太陽の日照が極端に少なくなった場合はどうなるでしょうか。
 17~18世紀に太陽は活動が異常なほど低下する「極小期」が起こり、そのためヨーロッパや北米は寒くなり、普段は凍ることのないイギリスのテムズ川が凍り、またアイルランドも大凶作になりました。
 当時の人々はこのような状況になってはじめて、太陽、太陽の日射の有り難さをわかったことでしょう。
 このような太陽の変動は今後も起こりえることですが、しかし、私達はどのような時も、当たり前のように太陽が降り注ぐと考えがちで、太陽、太陽光のありがたみを忘れてしまっていることはないでしょうか。

「神様の恵みがあるからこそ」

 私達が当たり前に思っている水、空気、土、太陽はもちろん、神様が造られたものですが、しかし、私達は神様が自然の恩恵を与えて下さる方で、私達は受ける側として、あまりにも慣れて、当然で当たり前のこととしていないでしょうか。
 私達は恵みが当たり前ではなく、「神の恵みによって今日のわたしがある」(Ⅰコリント15:10)、「(神様の)そのすべてのめぐみを心にとめよ」(詩篇103:2 口語訳)というみ言葉を受け止めたいと思います。

2011年6月22日 (水)

夜の教会です

夜、教会の十字架はライトアップされています。

Photo

2

2011年6月 2日 (木)

教会の屋根の色が変わりました

教会屋根の塗装工事は5月7日(土)から足場が組まれ、5月中旬に塗装されて、5月28日(土)をもって足場が解体、撤去されて、無事終了しました。

旧教会屋根(赤色)
Photo

 ↓

新教会屋根(青色)
003_2

Photo

となりました。
青色に塗装された教会屋根はとても綺麗になり、感謝です。

2011年6月 1日 (水)

「教会便り」2011年6月号より

「先が見えない」

 東日本大震災の発生から約二ヶ月以上が経ちましたが、まだまだ被災地、特に福島第1原子力発電所の復旧の兆しが見えず、収束のメドが立たないという先が見えず、出口や終わりの見えない状況が続いています。

「生産性のない作業」

 1942年、オーストリアでナチスに拘束された精神科医のヴィクトール・フランクルは、アウシュビッツの強制収容所に送られました。
 彼と共に収容された人々は、強制収容所で何もない空地へ連れて行かれ、午前中にただひたすら大きな穴を掘るように命令され、午後には、その苦労してようやく掘った穴を埋めるというような、何ら生産性のない作業を命じられました。
 当時、作業させられた多くの人はそのような作業だった故に、先が見えず、希望や目的が見出せずにいて、病気で倒れる人やまた絶望して、命を絶った人も多くいたそうです。

「信仰の父アブラハム」

 信仰の父と言われるアブラハムは、年齢が100歳近くで、妻のサラも90歳近い時に、神様は二人に対して、あなたの子孫は星の数ほど多くなると約束されました。
 アブラハムは現実的に子孫を残せる見込みは全くなく、彼にとって神様の言われたことは非現実的でしたが、しかし、「彼は希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて、信じた」(ローマ4:18)のでした。
 アブラハムにとって先が全く見えず、見通しがつかず、普通の人ならあきらめ、落胆し、絶望するしかなかったのですが、彼はそれでもなお神様に望みを置いて、信じ切ったということです。
 この結果、アブラハムは「諸国民の父」(創世記17:6)となり、「ますます繁栄」(同上)し、彼の「受ける報いは非常に大きい」(同15:1)ものとなりました。

「神様に望みを抱いた先には」

 私達も現実を生きる中で、様々な問題・困難にぶつかり、先が見えず、出口や終わりの見えない状況が続き、絶望する時があります。     
 しかし、私達も「希望するすべもなかった時に、なおも(神様に)望みを抱いて、信じ」るならば、状況が好転し、または内なる変化があり、先が見え、出口や終わりの見える状況になるのではないでしょうか。

« 2011年4月 | トップページ | 2011年7月 »