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2012年5月

2012年5月31日 (木)

教会のカーペットを張り替えました。

教会礼拝堂、集会室、ベストリーのカーペット張り替え工事が5月30日(水)から31日(木)にかけて行われて、無事に終了しました。

「礼拝堂」
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「集会室」
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「ペストリー」
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カーペットの張り替えによって、教会礼拝堂、集会室、ベストリーは見違えるように明るくなり、綺麗になって、とても感謝です。

2012年5月29日 (火)

「教会便り」2012年6月号より

「嫌な時の反応」

 嫌なことが起こった時には、人によって、色々な対応があるのではないかと思います。
 その時に、ある人は愚痴として吐き出し、ある人は気を紛らわすために、散歩するなどして気分転換をするということもあることでしょう。

「嫌な時こそ、ありがとう」

 しかし、工学博士の五日市剛氏は嫌なことが起こった時には、上述のことと全く、正反対の方法を使われています。
 それは「嫌なことがあったら『ありがとう』を(心の中や言葉で)言うこと」と言われているからです。
 この五日市氏の言葉はイスラエルでの体験からきています。
 それは五日市氏が大学院の学生の頃、研究に行き詰まり、また人間関係にもひどく悩み、さらに気性の荒い自分の性格に嫌気が差し、そこでイスラエルに一人旅をしました。 
 しかし、イスラエルに到着したものの財布を無くし、詐欺にも遭い、更にその日は数十年に一度の大寒波が襲った寒い日で、しかも、どのホテルも休業中で宿泊できないという悲惨な状況で、踏んだり、蹴ったりで、泣き面に蜂の状況でした。
 ところが、その時に一人の親切なおばあさんから声をかけてもらい、家に泊めてもらうことになり、その家でおばあさんから、「嫌なことがあってもすぐにありがとうと言いなさい。すると運命を好転することができるから」と教えられたそうです。
 その後、日本に帰った五日市氏はおばあさんの教えを実践した所、不幸の全ての連鎖を断ち切ることができ、幸せな気持ちになり、全て、物事が好転していったそうです。
 もちろん、五日市氏も最初から出来たのではなく、毎日、意識し、努力して、習慣付けていき、時間をかけて、ようやく実践できたそうです。

「感謝を試してみる」

 この「嫌なことがあったら『ありがとう』と言うことについては、聖書の「どんなことにも感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:18)というみ言葉と通じ合っていると言えるかと思います。
 現実的に私達は嫌な時には、なかなか感謝しにくいですが、しかし、ある時、気落ちしていた宣教師が、感謝を試してみると、「あらゆる影は一瞬のうちに消え去り、再び戻ってこなかった」という事実もありますので、非常に難しいですが、時間をかけて実践していきたいものです。

2012年5月23日 (水)

教会の窓がサッシに替わりました。

教会の窓サッシ取り替え工事は5月7日(月)から足場が組まれ、旧型の窓は全て窓サッシに取り替えられて、5月15日(火)をもって足場が解体、撤去されて、無事終了しました。

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教会窓サッシは頑丈で、とても綺麗になり、本当に感謝です。

2012年5月 1日 (火)

「教会便り」2012年5月号より

「人が通らなければならない道」

 人が必ず、通らなければならない道は生まれること、死ぬことの2つと言えることができるのではないかと思います。
 またそのこと以外でも、長い人生を送る中で、人が通らなければならない道は、苦難の道・十字架の道と言えるのではないでしょうか。
 具体的に苦難・十字架の道とは、痛み、病気、また人から受けるものとして、無理解、陰口、悪口、批判、憎悪、侮辱、屈辱、蔑視、裏切り、陰謀、排斥等々と言えるでしょう。
 また神様からの試練としては、神様の祈りに対する沈黙、神様不在の苦しみや孤独等と言えるでしょう。

「イエス様がすでに通った道」

 私達が通った道は、もうすでに救い主イエス様が通られています。
 そのことについては、「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」(イザヤ5:1)という痛み・病、「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」(ヨハネ13:9)という弟子の無理解、「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」(ルカ7:28)という陰口・悪口、「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」 (ルカ15:2)という批判を受けられているからです。
 またイエス様が人から受ける憎悪、侮辱、屈辱、蔑視、裏切り、陰謀、排斥やそれ以上の受難、又、神様の祈りに対する沈黙、神様不在の苦しみや孤独等を体験されたことは新約聖書で、詳しく記されています。

「天国への階段を上っている」

 それでは何故、私達は同じようにイエス様がたどられた道を通っているのでしょうか。
 それについては、イエス様の語られる「わたしは道で…わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)というみ言葉が一つの答えとして示されていると思われます。
 つまり、イエス様の道、イエス様の歩まれた道を通らなければ、誰も父なる神様のもと、つまり、天国に行くことができないので、誰もがイエス様がたどられた道を通ることになっていると考えられます。
 そこから、もし、私達が過去やまた現在において、イエス様のたどられた道を通っているとすれば、それは正に天国への階段に一歩一歩、上っているということになるのではないでしょうか。

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