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2018年5月 1日 (火)

教会便り5月号

その声を聞く

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

五月になると「五月病」という言葉をよく耳にします。症状は人によって様々ですが、睡眠障害や免疫力低下といった症状も報告されています。このことからも五月病は、一概に「気分の問題」ではないということがわかります。一方で五月病は、聞く人によって「放っておけばすぐに治る」と楽観視されてしまい、本当に辛い気持ちであったとしても、自分の辛さが認めてもらえないこともあるようです。

「辛い」という一声を発する側にはかなりの勇気が必要です。しかし聞く側はその勇気に気づかない場合があります。私たちにはこの「他者の苦しみ」を理解しようとするための「聞く」力が乏しいのかもしれません。

聞いてもらえる喜び

新約聖書『マルコによる福音書』に、バルティマイという盲人のお話があります。聖書の時代、目が見えない人々は仕事に就けず、道端で物乞いとして生活する以外に方法がありませんでした。しかし誰も望んで盲人になるわけではありません。バルティマイも目が見えるようになりたかったのです。そんな時に、イエス・キリストが自分の近くを通ることを知ったバルティマイは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」(マルコ10:48)とイエスに大声で助けを求めます。多くの人々は、バルティマイの行動を良く思わずに彼を叱りつけます。人々にとってバルティマイの叫び声は邪魔だったのです。しかしイエスだけはバルティマイの声を聞き、バルティマイを近くに呼び寄せ、彼の願いであった「目が見えるようになる」生活を与えられたのです。その時バルティマイは、唯一の財産であった上着を脱ぎ捨てるほど喜んだのです。声を聞いてもらえることすら困難であったバルティマイにとって、自分の苦しみをただ「聞いてもらえる」と確信したことが何よりも喜びだったのです。

神に遣わされた人

 自分が「苦しい」「辛い」ということを他者に語ろうとする時、「放っとけば大丈夫」「我慢しろ」など、発言者の勇気が全く受け止められないのは何故でしょうか。この様な答えが返ってくるかもしれないと思って、自分の辛さを表沙汰に出来ずに苦しみ続けてしまって良いのでしょうか。イエスは人々から声をかけることを拒まれたバルティマイの声を聞かれました。私たちが誰かに助けを求められるのは、私たちがその人から信頼されているからです。つまりその声を聞いた私たちは、その人にとって神から遣わされた唯一の救いなのです。

一方で弱音を吐く相手がいないと思う方もいると思います。あなたの近くにその弱音を受け止めてくれる人は必ずいます。その人が、あなたにとっての救いであるのかと躊躇されるかもしれませんが、その人があなたを救いへ導く神様からのみ使いなのかもしれないのです。

 

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