3.牧師より

2019年4月 1日 (月)

教会便り4月号

人格と品格

  司祭 セバスチャン 浪花朋久

 3月21日に神戸聖ミカエル大聖堂で聖職按手式が盛大に執り行われ、一人の新司祭と一人の新執事が誕生しました。牧師になる人は、「神様から特別な祝福をもらった人」とよく言われることがあります。しかし牧師全員が超人的な能力を持っているわけではありませんし、人によって才能や学力も様々です。この様に、人によって才能や能力が異なることは聖職者だけに留まらず、多くの人々にも当てはまることです。自分の才能や能力を自覚した上でいざ新しい生活が始まると、今までの能力だけでは通用しない場合もあります。この現実を知ると、自分が不甲斐なく感じることもあるでしょう。

誰が決めるのか

 使徒聖パウロは、新約聖書『コリントの信徒への手紙Ⅰ』12章で、教会の中に様々な能力を持った人々がいることを記しています。「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」ここでは、有能な人物は一人だけではないということがわかります。大きなことが何も出来なくても、備品を管理する小さな奉仕や仕事や援助も大切な能力の一つなのです。しかし私たちは、時折高い能力だけに注目して低い能力を否定的に見がちです。そもそも能力の「高い・低い」は誰が、そしてどの様な基準で決めているのでしょうか。聖パウロが語っているのは、能力の高い低いではなく、一人ひとりに神様から与えられた力があるということです。一方で私たちは、与えられた力だけを見るのではなく、他者の能力を比較しがちです。しかし自分が、他者から能力が低いと決めつけられるとどう思われますか?少なくとも良い気持ちにならないはずです。大切なのは、能力を比較することではなく、自分に「与えられた力」に気づくことなのです。

弱い人は必ず受け入れられる

 主イエスが十字架にかかった後、使徒たちは「次は自分たちが十字架にかけられる」と思って逃げ出しました。彼らの恐怖は、彼らの能力が低かったからでしょうか。そうではありません。主イエスは、ご自分の復活を弱い使徒たちに最初に目撃させました。自分の能力の低さに落ち込んだりすることはあります。しかし私たちには、私たちにしか出来ないことがあるのです。あなただけに与えられた神様の力を胸に、春を過ごしていきましょう。

2019年3月 1日 (金)

教会便り3月号

弱さを知る

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 自分の弱い部分を他人に見せることは、滅多にありません。それは家族や愛する人の前でも同じです。なぜなら「弱さ」は、私たちにとって恥だからです。愚痴や弱音を吐くと「甘ったれるな」「我慢が足りない」と、弱い自分が悪いと言わんばかりの答えが返ってくる時代もありました。だから他人に弱さを見せないように、または弱いと思われないように日々を送る人もいます。自分の弱さが他人に見つかりそうになった時は、他人を攻撃したり、自分のテリトリーからその人を排除すれば弱さが知られることはありません。しかし私たちは、弱いのです。どう頑張っても、弱さや限界が必ず私たちのもとへやって来るのです。

神の限界

 今年の教会の暦では、3月6日から大斎節が始まります。大斎節は、洗礼の準備期間であり、イエス・キリストの荒野の誘惑を覚えて過ごす日曜日を除く40日間です。

新約聖書『ルカによる福音書』第4章には、イエスが荒野で40日間悪魔の誘惑を受けられたことが記されています。イエスは神の子ですから、神様の能力を全て持っていらっしゃるはずです。そんなイエスが、なぜ荒野で40日間悪魔の誘惑を受けられたのでしょうか。神様には限界がありませんが、人間には限界があります。お腹が空けば食べたくなりますし、眠くなれば眠りたくなります。また苦しい時に一人で乗り越えられる力があると信じていても、実際は誰かの助けがなければ生きていけません。それが人間なのです。この人間の限界を知るために、イエスは身を持って人間の限界を経験されたのです。つまりイエスは、なぜ人間が弱さを受け入れられないのかを悪魔の誘惑において経験されたのです。これは、見方を変えれば私たちが誰にも知られたくない弱さを神様が誰よりも理解してくださっているということです。

自分に克つ

 人間にとって最大の誘惑は、自分を強いと思い込み、それを誇示することです。一人で生きていける人間こそ強い人間であり、もしそれが正しいのであれば、この世界には強い人間一人だけしか生き残ることは出来ません。それは、自分以外の誰も必要ないからです。しかし現代社会であっても、一人で生きている人はいません。いるとすれば、それは「一人でしか生きられない状態」なのです。誰にも助けを求められない、まさに弱い状態です。私たちは、自分の弱さを強さで覆い隠すのではなく、弱さを受け入れることで他人と喜び合える人生を歩んでいけるのです。

2019年2月 1日 (金)

教会便り2月号

歳をとる

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 1月17日に、神戸で行なわれた阪神大震災追悼礼拝に出席しました。私自身も被災者ということもあり、毎年参加しています。あれから24年の時が経ちました。ということは、24歳以下の人々は阪神大震災を「他者から聞く世代」ということになります。このことを知った時に自分も歳をとったなと思いましたが、同時に年齢を重ねていくにつれ自分が経験したことが過去のものとなっていくことを痛感しました。喪失感に似たこの感覚は、良くも悪くも自分が歳をとった証拠なのだと思います。

 ところで皆さんは、「歳をとる」と聞くと良い意味で捉えますか、それとも悪い意味で捉えますか。

シメオンの願い

 聖書の物語には、様々な世代の主人公たちが登場します。その中でも新約聖書『ルカによる福音書』に登場するシメオンは、聖霊から神様が遣わす救い主と出会うまでは決して死なないというお告げを受けていました。高齢になったシメオンにとって、人生最後の希望は救い主と出会うことだったのです。私たちは、救い主キリストが十字架にかかって死に、その3日後に復活したことを知っていますが、シメオンは救い主がどの様な人物かを全く知りません。それでも彼は、年老いながらも救い主を待ち続けたのです。そしてイエス様が両親によって神殿でささげられた日(被献日)に、彼は希望であった救い主イエス様と出会えたのです。この時にシメオンが語った言葉が「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、僕を安らかに去らせてくださる。」(ルカ2:29)です。シメオンには、長い人生の中で様々な楽しみや希望、使命感があったはずですが、その最後の希望が幼子イエス様でした。しかもイエス様に何かして欲しいのではなく、ただ出会えたことが喜びだったのです。人生経験が豊富なシメオンは、神様からの希望を今まで経験したことがなったのです。

人生の希望

 生活の中で喪失感ばかりが増えていくと、「早くお迎えが来て、ポックリいきたいという望みを持つようになる」ということをしばしば耳にします。人生は長く辛いものかもしれません。しかし希望もあるはずです。希望は、私たちが思い描いたものだけではありません。私たちが想像もしないような希望が何歳になっても必ず与えられているのです。それがキリストとの出会いです。シメオンは、キリストと出会うまで待ち続けました。私たちは、何を待ち続けながら人生の希望を見出せるのでしょうか。

2019年1月 4日 (金)

教会便り2019年1月号

素晴らしいところ

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 先日、TVドラマで主人公が「あなたの凄いところ100個言えます。」と語る場面を見ました。その内容は、挨拶をしてくれる、御礼を言ってくれる、など私たちにとって当たり前のことばかりです。主人公もそのことを指摘されますが、「当たり前のことは凄くないのですか?」と問い返し「当たり前が凄い」という私たちと違った見方をしていることを語ります。私たちの生活において当たり前になっていることの中には、人の凄いところ、言い換えるなら素晴らしいところがたくさんあることに気づかされました。

「当たり前」という呪縛

 新約聖書『ルカによる福音書』第2章8節以下に記されているクリスマス物語では、天使によって羊飼いたちに救い主誕生の知らせが伝えられます。聖書の時代、羊飼いは毎日昼夜問わず羊の番をしなければなりませんでした。羊の食料である草や水を求めて移動するので、定住することは出来ません。ところで、安息日に必ず神様を礼拝するということが当時の法律で定められていました。そのために安息日には、必ず仕事を休まなければなりません。しかし羊飼いたちは、羊の世話を毎日しなければならいので仕事を休むことはできません。つまり法律を守りたくても守れなかったのです。そのため人々は、当たり前のことができない羊飼いを忌み嫌いました。しかし羊飼いたちにとっては、当たり前のことができるということが凄いことだったのです。しかし常識は、羊飼いたちを何一つ守ってくれませんでした。そんな羊飼いたちに、救い主誕生の知らせが最初に届いたのです。

「当たり前」は、時に人を傷つけます。私たちの「当たり前」は、本当に出来て当然のことなのでしょうか。キリストは、当たり前のことが出来ない人々を招きました。つまり私たちの当たり前は、神様にとって当たり前ではないのです。それは「当たり前」ではなく、「素晴らしい」ことなのです。

見つけるだろう

羊飼いたちは、天使のお告げの後に飼い葉桶に寝かされた救い主キリストを見つけ出します。私たちは、素晴らしいものを見つける力を神様から与えられています。しかしその力を「悪い部分」を見つける方ばかりに使っていることがあります。この世の当たり前は、素晴らしいことです。当たり前のことを出来ない人が悪いのではなく、出来るように共に歩むことで素晴らしさは増していくはずです。

私たちに与えられている素晴らしいことを見つける力を、存分に用いることが出来るように2019年を歩んで参りましょう。

 

2018年12月 1日 (土)

教会便り12月号

クリスマスプレゼント

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 「プレゼント」という言葉の価値が少しずつ変わっているように感じるお話を耳にしました。「贈り物(プレゼント)をもらうと、お返しをしなければならない。」「頂くのは嬉しいけど、返すのが大変だから、贈り物はいただかないほうが有り難く思う時がある。」というものです。貰うのは嬉しいけれども、返すのはそれ以上に精神的や経済的な負担が大きいから疲れるということなのでしょうか。こうなるとプレゼントを贈る側も贈られる側もドキドキやワクワクといった感覚がなくなり、誰にも何も与えない方がよいのではないだろうかと考えてしまうかもしれません。

お返し不要のプレゼント

 新約聖書『マタイによる福音書』のクリスマス物語では、東方から占星術の学者たちが、新しい王の誕生をお祝いするために、生まれたばかりのイエス様のもとを訪れます。彼らは生まれたばかりの幼子イエス様に、黄金、乳香、没薬のプレゼントを献げます。しかし聖書には彼らがプレゼントを献げたことは書かれているのですが、イエス様や両親のマリアとヨセフからの御礼があったとは書かれていません。また学者たちは、プレゼントを渡すとすぐに自分たちの国へ帰っていきました。新しい王様にプレゼントしたのですから、何らかの見返りを求めたとしても不思議ではありません。しかも聖書には、これ以降学者たちが登場しませんし、イエス様が貰ったプレゼントをどうしたかということも記されていません。そこに「Give and Take」という考え方はないのです。なぜなら学者たちにとって、この世の苦しみを一人で負う神様からの使命を受けた新しい王であるイエス様がお生まれになったことが、何よりの喜びだったからです。

無償の愛

 プレゼントを贈られるととても嬉しいものです。また贈る方にも喜んでいただけると尚更です。プレゼントは、お互いが喜び合えるために贈る私たちの目に見える愛の形でもあります。幼子イエス様は、私たち人間を苦しみから解き放つためにお生まれになりました。しかし私たちは、幼子イエス様というプレゼントを「お返しをしなければならないから、いらない」と拒否するのでしょうか。イエス様に直接、プレゼントをお返しする必要はありません。私たちに与えられた「苦しみから解き放たれる」という奇跡を信じることで、私たちは既に幼子の愛に応えているのです。

 無償で与えられるものが、自分を苦しみから解き放ってくれるもの、その大きさに気づいたとき、私たちは本当のクリスマスプレゼントの喜びを感じることが出来るのです。

 

2018年11月 1日 (木)

教会便り11月号

現代の亡霊

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 11月は、教会の暦で逝去者の月と呼ばれています。7年前、イギリスのカデスドンという小さな街へ行った時のことです。街の教会へ立ち寄ってみると、敷地内に墓地がありました。中には100年以上前の墓石もありましたが、ほとんどの墓石には苔がついており、手入れをされた痕跡はありません。牧師に尋ねてみると、「イギリスでは誰も墓守をしない」ということでした。死者を大切にしていないと少し驚きましたが、これは文化の違いです。イギリスでは、逝去記念日に礼拝の中で牧師と信徒一同が逝去者を覚えて祈りをささげます。そして11月には、全ての逝去者を覚えて教会全体で祈りがささげられます。しかしなぜ私たちは、逝去者の魂の平安を祈るのでしょうか。

逝去者と亡霊

 逝去者記念は、亡くなった方を個別に記念し、主にある交わりをともにする祈りです。ここで注意したいことは、亡くなった方と自分との個人的な関係だけにとどまらず、「主にある交わりとともに」あるということです。つまり逝去者記念において、「あの人と私だけの思い出を大切にする」だけでなく、「あの人と出会えたことやその思い出は、神様によって与えられた」と信じることが大切なのです。しかし、この「主にある交わり」を、この世を生きる私たちが忘れてしまうと、徐々に逝去者を神様のように感じてしまうことがあります。その結果、逝去者との形見や思い出にしがみついてしまい、人生の時計の針を前に進められなくなることもあります。それはまるで逝去者が亡霊となって、その人に取り憑いているようにも見えます。この様に私たちが愛し、親しんだ逝去者たちを亡霊にしないために「主にある交わりとともに」という言葉が大切なのです。

記念とは

イエス・キリストは、最後の晩餐の際に「わたしを記念するため」と語られました。この「記念する」とは、過去に起こったことを思い出すだけでなく、現在にまで及ぼし続ける過去を想い起こすことです。逝去者記念の場合、自分と逝去者との過去の思い出だけを大切にするのではなく、神様によって今を生きる私たちと逝去者とが一緒に歩み続けることを意味しているのです。

死者との関係は過去のものではありますが、逝去者とともに未来を歩むことでもあります。「主にあって」逝去者と神様とともに未来への第一歩を歩んで参りましょう。

2018年10月 1日 (月)

教会便り10月号

遺書と遺言書

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 皆さんは、「遺書」と「遺言書」の違いをご存じでしょうか。遺書とは、「私が死んでも家族仲良く過ごしておくれ」など、故人から家族などへ送られる「言葉」のことです。一方で遺言書は、「私が死んだ後、財産を○○に相続させる」と相続について具体的に記されているものです。後者は正しく記せば法的効力を持ちますが、前者には法的効力は全くありません。つまり自分が死ぬ前に伝えた「言葉」は、悲しい話ですが法的に何の価値もないのです。しかし、それを知らずに「もう伝えてあるから大丈夫」と思ってしまうと、旅だった後に家族で一悶着起こってしまうこともしばしばあるようです。

聖書が生まれた理由

 新約聖書の時代、文字を読める人が少なかったので、情報は人の口を通して伝えられていました。所謂「口伝」です。教会もイエス・キリストの言葉を直接聞いた使徒たちによって口伝で人々に伝えられました。しかし使徒たちのようにイエスを「直接見た」世代や「直接聞いた」世代がこの世を去ってしまったので、イエスの情報を正しく口伝で伝えることが難しくなってきました。そこで教会は、文字が読める教養ある人々を通して、イエスの言動や使徒たちの活躍を文字にして後世に伝えたのです。これが新約聖書の始まりです。そこには、当時の教会が抱えていた問題などの背景が垣間見える一方で、その問題が解決できたことも垣間見えます。イエスの存在が、当時の人々にとって都合の良い存在だったと偽りの姿が記されることなく、正しく記されたことによって、歴史的価値とその信憑性が高まり、その効力は教会によって現代まで続いているのです。それは、かつてイエスに救われた人々が、その救いの喜びを次の世代に正しく伝えようとしたからです。そういった意味では、聖書は「遺書」よりも「遺言書」と似ているのかもしれません。

残されたもの

 「自分が死んでも自分の意思は尊重される」と思っていても、それが残された者に正しく伝わらなければ無意味なものになってしまいます。イエスが私たちに残されたのは、不必要なものだったのでしょうか。そうではありません。十字架にかかったイエスによって人間の痛みや悲しみを神様が共感してくださる喜び、そしてイエスの復活によって私たちが苦しみから復活できることが新約聖書に詳しく記されています。私たちが苦しい時に喜びに満たされるために、聖書のみ言葉が残されたのです。

2018年9月 1日 (土)

教会便り9月号

誰がために鐘は鳴るのか

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 8月、徳島市で夏の風物詩である阿波踊りの「総踊り」が強行されました。もともと「総踊り」は、4日間行なわれる阿波踊りの最終日、様々な団体が団結して年に1度だけ行なわれる全国的にも有名な行事です。しかし今年は、様々な理由から市長がこの「総踊り」を中止することを決意しました。市長には市長なりの意見があったようですが、毎年行なわれていた行事のいきなりの「中止」に市民は納得できませんでした。その結果「総踊り」は強行されたのです。市民と市長の意見が阿波踊りのために真っ二つになってしまう、こうなると「総踊り」は、いったい誰のためのものなのか、とも思えてしまいます。

独り占め

 今から2000年前、教会が誕生したばかりの時代、教会はどの様にして人々を教会に招いたと思われますか。偉い牧師や立派な信徒さんが頑張ったと思われるかもしれません。実は、教会に人々を招いていたのは無学な一般信徒だったのです。彼らは自分たちがイエス・キリストと出会ったことで、自分の苦しみを理解してくださる神様の存在を知り信仰に入りました。そして自分たちが救われたことを喜び、その喜びを洗濯場や市場などの世間話の中で語ったのです。つまり神様からの救いを独り占めすることなく、喜びを他の人にも分けようとしたのです。

 イエス自身、この世に来られたのはご自分の意志ではなく「わたしをお遣わしになった天の父の意志」と語られました。十字架の死と復活は、イエスの意志ではなく神様の意思であり、自分をこの世に示すためではなく、全ての人の苦しみと悲しみを理解し、それから解放するためだったのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来た」(マルコ10章45節)とあるように、イエスは自分のためではなく神様と他者のためにこの世に救いをもたらしたのです。

祈りの中心とは

 教会の鐘は、人々に礼拝の始まりを知らせる大切な合図です。しかし祈りに来る一人ひとりが自分のためだけに祈りをささげているのなら、本当に救いがあるのでしょうか。教会の中心は「私」ではなく「キリスト」です。イエスは、どれだけ私たちの人生の経験を持ってしても超えられない救いです。私たちは誰のために祈り、誰のために生きるのでしょうか。

2018年8月 1日 (水)

教会便り8月号

現代の毒

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 8月です。夏が到来しました。今年の夏は、例年と比較できないほどの暑さとなりました。少し前までクーラーは「身体に毒」と思われていました。しかしクーラーがこの世に登場してから今日までの間に、その技術は進歩し、身体への負担がかなり軽減されました。今では、気象庁が熱中症対策としてクーラーを推奨しているくらいです。しかし「身体に毒」という先入観は、捨てきれません。しかし毒を用いて命を守る行動を取ることが、実は正しかったとしたらどうでしょうか。

毒麦のたとえ

 新約聖書『マタイによる福音書』に「毒麦のたとえ」という、イエスが天の国をたとえたお話があります。ある良い人が畑に麦の種を蒔いたのですが、人々が眠っている間に敵が来て、畑の中に毒麦を蒔いていきました。麦が実る頃には、畑に毒麦も現われましたが、良い麦と混ざっています。畑で働く人々は、主人に毒麦を抜き集めることを提案しますが、主人は「毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と刈り取る者に言いつけよう。」と語ります。このお話では、イエスが再びこの世界へやって来られる時に、神様の御心に適った生き方をした人と、自分中心・人間中心の生き方をした人を判断することがたとえられています。つまり良い麦は、神様の御心に適った神様中心・隣人中心の生き方をした人、毒麦は自分中心・人間中心の生き方をした人を意味しているのです。自分では、より良い生活を送り、他者よりも優れた考えを持っているはずだと思っていても、それは天の国では毒にしかならないのです。一方で、自分の利益にならないような「人助け」や「祈り」は、天の国にとって良き薬になるということです。

「誤解」という名の毒

 今の私たちにとっての毒とは、一体何でしょうか。「毒麦のたとえ」で、主人は毒麦と良い麦を識別する難しさを語っています。私たちの生活の中にも、毒と思われるものは多くあるでしょう。しかしそれは、本当に「毒」なのでしょうか。最大の毒は「誤解」です。誤解によって傷つけられることもあれば、傷つけてしまうこともあります。誤解さえなければ助かった命もあるはずです。私たちにとって最大の誤解は、「こうあるべきだ」という先入観です。この誤解を信じてしまうことで、刈り入れの時に私たち自身が毒にならないように気をつけなければなりません。

2018年7月 1日 (日)

教会便り7月号

身を守る

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

近年、老後破産という言葉をよく耳にします。定年退職した後、自分の貯金では生活できないことに気づく方が多い、とのことです。それまでは「何とかなる」と思っていても、現実は想像以上に費用がかかるために何ともならなくなってしまう。現代を生きる私たちは、昔に比べて自分の身を守る必要が高まっていると言えるのかもしれません。しかし自分だけを守っていると、今度は他者との関係を煩わしく思うこともあります。「自分さえ良ければ、それで良い」という考え方です。

富を積む

 新約聖書『ルカによる福音書』12章でイエスは、次のようなたとえ話を語られます。ある金持ちが倉庫に入らないくらいの収穫を得ました。金持ちは考えた末、持っている倉庫を壊して新しい倉庫を建てることで、収穫した作物や自分の財産を全部しまって「これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と自分自身に語ります。しかし神は、この行動を見て「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と金持ちを叱られます。自分の身を自分で守る行動を取った金持ちのどこに問題があるのでしょうか。不正をするわけでもなく、自分の努力で築き上げた財産で生活することに何の問題があるのでしょうか。この金持ちの唯一の間違いは、他者を見ずに自分しか見ていないことです。私たちは、必ず死にます。しかし死後の世界まで自分の富を持っていくことはできません。つまり自分自身を救うことはできないのです。天に富を積む方法は一つです。それは、自分が助けられる範囲で人を助けることです。

人助けとは、一方通行ではありません。困難な状況になると、今度はその恩を感じた人々が助けてくれます。この様にして私たちは、互いに助け合うことで天に富を積み、自分の身を守ることができるのです。

真の身の守り方

 喜びは独り占めするのではなく、誰かと分かち合う。同じように苦しみも誰かと分かち合えれば、苦しみは少し減ります。私たちは、この様にして他者と共に身を守ることができるのです。イエスは、人々が幸せになれる世界を実現するコツとして「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」(マタイ7:12)と語られました。これが神から私たちに与えられた「身の守り方」なのです。

 

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