3.牧師より

2017年11月 1日 (水)

教会便り11月号

終わりなき成長

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 日本舞踊の流派の一つに五月流というものがあります。1970年(昭和50年)に創流した流派で、現在三代目家元を務めるのは五月千和加(さつき・せんわか)さん。彼女は21歳で家元になりましたが、その姿は髪の毛を赤く染め、派手な化粧をする、いわゆる「ギャル」なのです。千和加さんは、家元である自分がギャル化粧をしながら五月流の日本舞踊を披露することで、日本舞踊の伝統を「崩す」のではなく、伝統に現代の文化を「加える」ことで、日本舞踊という伝統を更に広げようと考えたのです。しかしギャル化粧で日本舞踊を踊る彼女の姿に、業界の方々からは決して良く見られることはありませんでした。それでも彼女をはじめとする五月流は、日本舞踊という世界に留まらず「現代」という文化に助けを求めることで、新しい伝統を築き上げることができ、現代ではその地位を確立することが出来たのです。

新しい伝統を加えることで、これまで日本舞踊に興味・関心がなかった人々が五月流の門を叩き、現在では300名の門下生が在籍し、活動の幅を更に広げています。千和加さんは伝統を守りつつも、そこから成長させたのです。

既に働くキリスト

 「インカルチュレーション(文化的受肉)」という言葉があります。意味は、様々な文化の中で教会が働く前からイエス・キリストの働きが既に存在している、ということです。神様の救いとは、教会の中に留まっているものではありません。救いが教会の内側だけにあると信じていても、教会は何らのかたちで必ずピンチを迎えます。内側に救いがあるはずなのに、その救いを見出せない、そんな時にこそ、教会の外側で既にイエスが働いていることを知ることが大切です。教会の外側にも神様からの救いが既に存在しているのです。教会も内側だけではなく、外側の救いを経験することで教会の伝統に新しい文化を加えていくことができ、神様によって更に成長することができるのです。

世を愛する神

 教会の中でしか出来ないことは確かにあります。しかし、神様は教会の外に手を差し伸べていない、ということは絶対にありえません。なぜなら「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネによる福音書第3章16節)とあるように、神様は「この世界」を愛されているからです。私たちが生活する様々な場所でイエスは既に働いておられます。そこでイエスと出会った喜びを教会に持ち帰り、皆で分かち合うことで教会は更に成長していくのです。これは人間も同じです。自分の経験の中だけに留まるのではなく、今まで自分が経験したこともない新しいことを「加えて」いくことで、人間は新しい自分へと生まれ変わることができるのです。この成長のためにイエスは既に私たちに働いておられるのです。

2017年9月30日 (土)

教会便り10月号

カウントダウン

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 先日、スーパーへ買い物に行った時に、「広島カープ、リーグ優勝までマジック1」という看板を見つけました。プロ野球のチームが優勝すると安売りをするということです。優勝のタイムリミットは勝利1つ。しかし、天候によって試合が延びたり、負けが続いてしまえば優勝の時間も延びてしまいます。短いようで長い「タイムリミット」が私たちの生活の中にもあるのです。(ちなみに広島カープは9月18日に優勝しました。)一方、人間は生まれたその日から人生のカウントダウンが始まります。若い時は、まだ来ないであろう「終わりの時」を考えずに毎日を過ごしますが、年を重ねることで人生のカウントダウンを意識しすぎてしまうこともあります。

再び来られるキリスト

新約聖書『使徒言行録』第1章11節に、「あなたがたから離れて天にあげられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と記されています。天に昇られたイエス・キリストは、再びこの世界にやってくると言うことです。しかし、それがいつなのかはわかりません。当時の人々は、イエスがいつ来るのか分からないこと対して、自分が生きている間にイエスが再びこの世界に来るのだろうか、と不安を感じるようになりました。教会のリーダーの一人である使徒聖パウロは、イエスが再び来られるときは「盗人が夜やってくるよう」(Ⅰテサロニケ第5章2節)と喩えて、「イエスが突然来る」と人々に伝えています。また、イエスが来られる前に世を去った人々のことについては、「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(同4章14節)と語ります。つまりイエスを救い主だ、と信じて世を去ったとしても、イエスが再びこの世界に来られるときに世を去った人々も復活して、生きている人と共にイエスに出会うことができる、ということです。

「今」と「未だ」の間

 人間は、「今」と「未だ」の間を生きることで自分に必要なことを探します。この間を焦りながら生きる必要はありません。神様は、私たちに準備の時間を与えてくださっています。だからイエスは「まだ」来られないのです。突然来られるイエスを前にしても、「あぁ、これでよかったのだ」と自分だけではなく、他者と一緒に喜び合える人生を送ることが、イエス様に会うために必要な生き方なのです。イエス様が再び来られる日までのタイムリミットを満喫しながら生きていければ、と思います。

2017年9月 1日 (金)

教会便り9月号

世界の中心

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 8月に広島と兵庫県佐用町へ出張に出かけました。その際に新しい出会いもあれば、懐かしい顔ぶれに再会することもありました。その時に、「教会の大きな行事の度に、新しい出会いもあれば、懐かしい顔ぶれに再会することを嬉しく思う反面、学校の同級生や会社の同僚たちとは、また違った不思議な感覚を覚える」ということを耳にしました。教会の友人たちが大切な仲間ではあるのですが、学校や会社、あるいは地域の友人関係とは、また一つ違った感覚を持てるのが「教会」という場所なのだ、ということを再確認できた気がしました。

初代教会の苦難

 今から約2000年前の教会では、「兄弟があなたに罪を犯したなら・・・」(マタイによる福音書第18章15節)という聖書の言葉があるように、教会内で信徒同士の争いがあったようです。「罪」とは「的外れ」という意味があります。しかし、この「的外れ」の主語は「神様から見た」ということです。人間の意思で「罪」を決めるのではなく、神様の目から見たもの、つまり「教会」という共同体が「イエス・キリストを中心に集まれない状態」になった時に、その罪が明らかになるのです。先程の聖書の言葉は、教会でイエスのことを忘れて、自分たちの都合良い仲間だけの集会が行われることが現実に起こったので、同じような罪を犯さないように私たちに警告しているのです。 

不思議な感覚の正体

教会は、イエス・キリストを中心に神の民が集まる場所です。そこには善人も悪人も集まることができます。なぜなら神様は全ての人を教会に招いているからです。人間の善し悪しで、教会に来る人を決めることはできません。先程のように、教会の仲間が「学校の同級生や会社の同僚とまた違った不思議な感覚」を持つのは、教会では人間の意思ではなく、神様の意思によってイエスを中心に人々が集められるからです。だから世間の集まりと違った感覚になるのです。この「不思議な感覚」こそが、神様が全人類を一つの場所に集めてくださる神の国の感覚なのです。つまりキリストを中心にすれば、世界は一つになれるのです。

2017年8月 1日 (火)

教会便り 8月号

助けてください

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

7月5日(水)に浜田市内を大雨が襲いました。幸いなことに教会近隣は何事もなく、信徒の皆さんも無事でした。しかし浜田の西部などでは、大雨によって避難所生活を余儀なくされた方々がおられました。自然災害で家などが被災すると「一人では何も出来ない」ということを痛感します。しかしその反面、「皆が苦しい思いをしているのだから人様に迷惑をかけてはならない」という優しさから、自分の力だけで苦しみを乗り越えようとするのも人間です。

疲れた者、重荷を負う者

新約聖書『マタイによる福音書』では、イエスが「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・・私の軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからだ。」(マタイ112829節)と語られます。ここでいう「疲れた者、重荷を負う者」とは、イエスの時代に定められた法律を守りたくても守れない人々のことを意味しています。人々は法律を守りたくても守れない人の弱点を指摘して裁こうとします。弱点を見つけられるということは、自分が他者と比べて如何に怠っているかを突きつけられることを意味します。この様な現状の中で過ごす人々は、他者に自分の弱点を探られまい、と他者の目を気にしながら生きなければならなかったのです。これは他者に助けを求められないことを意味しています。他者に助けを求めると自分の弱さを他者に見られてしまうからです。そんな時にイエスは「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい」と語られたのです。

誰に助けを求めるのか

私たちは自分一人の力で生き、自分を強く見せようとすることで、弱い部分を隠そうとしてしまいます。しかし人間は、ピンチになると一人で生きていけないのが現実です。私たちはこの現実を受け入れ、他者へ助けを求める時に、助けてくれる人と出会うことができるのです。そしてイエスのように、神様と人々が一緒に喜び合えるような生き方が出来るようになるのです。つまり他者に助けを求めることは、神様に助けを求めることなのです。

2017年7月 7日 (金)

大雨

 7月5日に浜田市内に大雨の特別警報が発令冷ました。当日、教会近隣では雨もそこそで被害はありませんでした。

2017年7月 1日 (土)

教会便り 7月号

期待と裏切り

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

誰かからの期待を一身に背負いながら生きることは思いの外困難です。その期待は自分から出てきたものではないのに、少しでも相手からの期待を裏切るような行為をしてしまうと「裏切り者」として恨まれてしまいます。一方で、期待に応えないことが正しい選択肢である場合がありますが、正しいことを行っているのに、相手が自分を恨み続けるという矛盾が起こることがあります。

期待外れの旅

旧約聖書『出エジプト記』に、モーセという指導者が神様からの声を聞いて、エジプトで奴隷として苦しめられていたユダヤ人60万人をユダヤ地方へと導くという物語があります。神様は、神様と人々が一緒に喜び合える世界を実現してくれることを期待して、エジプトからユダヤ人たちを救出しました。しかし、エジプトからユダヤまでの旅路は荒野を行く険しい道のりです。ユダヤ人たちは、エジプト脱出という神様からの恵みを受けながらも奴隷から解放された後も続く困難に不満を感じ、「自分たちに自由を与えてくれる」という神様への期待が裏切られたと感じたのです。ユダヤ人たちは「奴隷だった時の方がよかった」と、今の苦しみから逃れるために昔の方がよかったという不満を漏らし、果ては自分の理想を叶えてくれると思い、自分たちの力で新しい神様を造ろうとするくらいです。不満の声が上がる一方、神様はモーセを通してユダヤ人たちに食料や水を与えられますが、いつまでも続く旅に、ユダヤ人たちは「エジプトにいた時の方が良かった」と不満を漏らします。そのため、彼らは神様からの恵みをも受け入れられない状態です。しかし、神様はどれだけユダヤ人たちにご自分の期待を裏切られ、不満を言われ、時に罰することもあったとしても、最後の最後までユダヤ人たちを守り続け、40年の旅路の末に彼らをユダヤ地方へ導かれました。

本当の期待

人間は他人に期待しながらも、その期待が応えられないと怒りと恨みがこみあがってきます。しかし、神様が人間に期待しているのは、神様の利益のためではなく、人間の未来のためです。一方で、私たちの期待とは一体誰のために、そして、何のためのものなのでしょうか。未来のために与えられている期待、これこそが私たちの人生をより良く生きるために必要だからこそ、神様が与えてくださるものなのです。未来のための期待の中に、神様の力が働いていると信じて神様の期待に応えながら、日々を歩んで行ければと思います。

2017年6月 1日 (木)

教会便り 6月号

聖霊降臨

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 新約聖書『使徒言行録』第2章には、イエス・キリストが天に昇った後、残された使徒たち(イエスが選んだ弟子たち)がイエスのことを人々に宣べ伝えることになった事件が記されています。それが「聖霊降臨」です。

 ある時、家にいた使徒たちに聖霊が降り、炎のような舌が使徒たちの上に留まります。これによって使徒たちはありとあらゆる国の言葉が話せるようになりました。そして、もう一つが今まで家の中に閉じこもっていた使徒たちが、聖霊の力によって家の外に出て大胆にイエスの生涯について語り始めたのです。この使徒たちの大胆な語りかけによって、あらゆる国の人々が聖霊によって一つの交わりに入れられ、世界で初めての教会が誕生したのです。

強められる

 キリスト教は2000年以上もの間、使徒たちから続く「イエス・キリストは、救い主である」という信仰を守り続けています。この歴史は、企業や公益事業などでは、考えられない数字です。一方で、使徒たちは最初から大胆にイエスのことを人々に宣べ伝えていたのではありません。使徒たちは、イエスが十字架の死から復活した後も。イエスが天に昇られた後も部屋の中で閉じこもっていました。それは、復活のイエスを直接見ても、まだイエスを十字架にかけた人々を恐れて「自分たちもイエスのことを語れば殺されるかもしれない」と恐れていたからです。そんな使徒たちに突然、聖霊が降り、様々な国の言葉を話せるようになると同時に、人々に恐れることなく大胆にイエスの生涯を人々に伝えるようになり、それまでと全く違った生き方になったのです。この聖霊の働きによって強められた使徒たちの働きの結果、教会は2000年の信仰の歴史を守り続けているのです。

挫折から立ち上がる

 過去にうまくいっていたことが、様々な理由から実行できなくなったり、自分の体が以前のようにうまく動かなくなることで人間は挫折します。使徒たちもまた、イエスの教えを信じることができず、他者の視線を気にすることで、イエスと共に生活していたときに比べて何も出来ない状態が続いていました。しかし、聖霊によって、使徒たちは過去の自分たちと全く違った新しい人生を歩むようになります。自分の挫折から立ち上がることを止めてしまい、立ち止まっていては歴史は動きません。歴史が動く、その時。必ず私たちに聖霊が降り、挫折や過去の栄光から再び立ち上がり、私たちの人生の新しい歴史の頁を動かせる力となるのです。

2017年5月 1日 (月)

教会便り 5月号

時空を超える力

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

教会の暦で5月25日は「昇天日」です。この日は、十字架の死から復活したイエス・キリストが天に昇られたことを記念する礼拝をおささげする日です(当教会では、5月16日19時より)。「昇天」とは、この世の時間が終わったので「天に昇る」ということではありません。「天」とは、神様が時間・空間を超えて支配される領域のことを意味しています。つまり、イエスは時間と空間を超えて現代を生きる私たちに救いをお与えてくださっているのです。

アウシュヴィッツの痛み

2年前にポーランドへ行ったときのことです。戦後70周年ということもあり、アウシュヴィッツ強制収容所へ見学に行きました。今から71年前のアウシュヴィッツでは、自動車工場で毎日ロボットが車を作っているようにナチス・ドイツの兵士たちによって毎日、ユダヤ人が機械的に虐殺されていたのです。また収容されたユダヤ人たちは虐殺されるだけではなく、虐殺された遺体はすぐに焼却されて、遺骨はありとあらゆる場所に無作為に散骨されました。そのため、今でもポーランド国内のどの土地に誰の遺骨があるのか特定することができないのです。アウシュヴィッツで虐殺されたユダヤ人たちの多くは、死してなお苦しめられているのです。

アウシュヴィッツから車で10分のところに、カトリックのビルケナズ教会があります。この教会には、祭壇にとても大きな鉄の十字架が設置されています。この鉄の十字架は、アウシュヴィッツで71年前に使用されていた鉄を溶かして作ったもので、アウシュヴィッツで虐殺された人々の痛みを、時空を超えてイエスが共に苦しんでくださっていることが象徴されているのです。つまり、ビルケナズ教会の十字架は神様が人間の痛みを、時空を超えて知ってくださっている証拠なのです。

時を超えて

イエスの十字架と復活の出来事は、過去の話で終わっているのではありません。現在を生きる私たちにとって「今」の出来事なのです。イエスが復活後に昇天されたのは、すべての人々が人生の中で経験する痛みを、時空を超えてイエス自身が知ってくださるための神様の業なのです。

2017年4月 1日 (土)

教会便り 4月号

過去・現在・未来

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

先日、ある方がこんなことを仰っていました。「自分の評価というのは、過去に自分が行ったことが『ある時』に必ず現われます。私たちは『その時』を受け止めながら人生を歩まなければならないのです。」過去の自分の言動が、どこかの時点の「今」に自分に現われ、それを受け入れられるか否かによって自分の未来が変わっていくのかもしれません。いわゆる「人生のターニングポイント」です。

塩の柱

旧約聖書『創世記』に「ソドムとゴモラ」という物語があります。ソドムとゴモラという街に住む人々は皆、神様のことを信じないで神様が嫌うことを善いことと思い生活していました。そこで神様は、ソドムとゴモラを滅ぼすことを決意されるのですが、神様のことを信じていたロトという人物の一家だけを助けるために「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。さもないと滅びることになる。」(創世記1917節)と助言し、ロトと妻、そして二人の娘をソドムの街から脱出させます。そして、ソドムの街が天から降ってきた硫黄の火によって滅ぼされます。その時、ロトの妻は神様の言いつけを無視して後ろを振り返ってしまい、塩の柱となってしまったのです。

「振り返る」とは、過去に縛られていることを意味しています。過去、自分が一番輝いていた時代のことを思い出して、談笑することはとても良いことですが、過去の輝きばかりに心奪われてしまい、未来へ進むことが出来ない時。あるいは過去の自分を今へと変化することが出来なくなってしまう時、私たちに待っているのは滅びなのかもしれません。それは、私たち人間が一秒たりとも過去に戻ること出来ないからです。そして、過去の自分の評価が「ある時」自分を襲います。この評価を受け止められるか、という問題に人間は必ずさしかかるのです。

神様の時

しかし、自分の過去の失敗を喜びに変えられる方法が一つだけあります。それがキリストの復活を信じることです。2000年前に死に、3日目に復活したキリストは、時空を超えて、私たちの過去の失敗や欠点を十字架に背負ってくださり、そして、その辛さを死によって討ち滅ぼし、復活されました。この復活の奇跡を信じることで、私たちは新しい人生、新しい自分として再び人生を歩き出すことが出来るのです。つまり、老若男女問わず、誰にでも起こる人生のターニングポイントこそキリストと出会うこと最大のチャンスなのです。そして、私たちは過去の自分に振り返らないで、未来を見つめながら歩むことが出来るようになるのです。過去の呪縛から解放されること。これこそが復活なのです。

2017年2月28日 (火)

教会便り 3月号

黙っていない神

 執事 セバスチャン 浪花朋久

3月1日(水)の大斎始日から大斎節が始まります。大斎節とは、もともと復活日に洗礼を受ける人々の準備期間でした。しかし、ある時代から全てのキリスト者がイエスの荒野の誘惑と十字架を覚えて、復活日までを準備する期間となりました。

沈黙

『沈黙-サイレンス-』という映画が全国で上映されています。原作はカトリック信徒である遠藤周作の『沈黙』です。この物語は、江戸時代初期にフェレイラ神父が日本での宣教活動中に幕府に捕まり棄教(ききょう)したという知らせを聞いた主人公ロドリコ神父がフェレイラ神父を探すと共に、日本の宣教活動を行うために来日する、というものです。しかし、ロドリコが日本で見たものは、キリシタン弾圧下で信仰を守るがゆえに拷問にかけられる人々でした。そして、ロドリコも幕府に捕まり、苦しみの中にある人々が自分の目の前いるにもかかわらず、どうして神様は沈黙しているのか、と祈るのでした。

私たちは、苦しみに合った時にその原因を探ろうとします。「なぜ、自分がこんなに苦しまなければならないのか」と思い、自分を苦しみに追いやった人物や事柄を憎みます。また「自分は神様を信じているのに、どうして苦しみが与えられるのか」と神様を恨み、信仰につまづいてしまうこともあります。現代ではキリスト教迫害ということはありませんが、自分の納得のいかない信仰生活を送らなければならないときに「自分の思いのままにならない」ことへの怒りが憎しみへと変わっていくのです。しかし、神様を信じていても起る苦しみは、あってはならないことなのでしょうか。つまり、私たち人間は生きている限り、様々なかたちの苦しみに必ず合うのです。そして、その苦しみに合うからこそ、イエスは荒野の誘惑を受け、十字架にかかられたのです。

キリストの苦しみ

 神様は、人間が人生の中で必ず苦しみに合った時、自分の力で立ち上がれないことを知っておられます。だから、神様が肉体となったイエスが荒野で40日40夜、断食することで人間の空腹を。十字架にかかることで人間の痛みを。人々からの罵声を受けることで人間の苦しみを神様自身が知ることが出来たのです。つまり、私たち人間の苦しみを神様が一緒に苦しんでくださっているのだから、人生で様々な苦しみに合ったとしても、その苦しみを神様が一緒に苦しんでくださるからこそ、その苦しみに見合った問題の解決が必ず与えられるのです。この確信をもつために私たちは、大斎節にイエスの荒野の誘惑と十字架の死を覚えて、大斎節中の日々を過ごして行ければと思います。

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