3.牧師より

2018年9月 1日 (土)

教会便り9月号

誰がために鐘は鳴るのか

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 8月、徳島市で夏の風物詩である阿波踊りの「総踊り」が強行されました。もともと「総踊り」は、4日間行なわれる阿波踊りの最終日、様々な団体が団結して年に1度だけ行なわれる全国的にも有名な行事です。しかし今年は、様々な理由から市長がこの「総踊り」を中止することを決意しました。市長には市長なりの意見があったようですが、毎年行なわれていた行事のいきなりの「中止」に市民は納得できませんでした。その結果「総踊り」は強行されたのです。市民と市長の意見が阿波踊りのために真っ二つになってしまう、こうなると「総踊り」は、いったい誰のためのものなのか、とも思えてしまいます。

独り占め

 今から2000年前、教会が誕生したばかりの時代、教会はどの様にして人々を教会に招いたと思われますか。偉い牧師や立派な信徒さんが頑張ったと思われるかもしれません。実は、教会に人々を招いていたのは無学な一般信徒だったのです。彼らは自分たちがイエス・キリストと出会ったことで、自分の苦しみを理解してくださる神様の存在を知り信仰に入りました。そして自分たちが救われたことを喜び、その喜びを洗濯場や市場などの世間話の中で語ったのです。つまり神様からの救いを独り占めすることなく、喜びを他の人にも分けようとしたのです。

 イエス自身、この世に来られたのはご自分の意志ではなく「わたしをお遣わしになった天の父の意志」と語られました。十字架の死と復活は、イエスの意志ではなく神様の意思であり、自分をこの世に示すためではなく、全ての人の苦しみと悲しみを理解し、それから解放するためだったのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来た」(マルコ10章45節)とあるように、イエスは自分のためではなく神様と他者のためにこの世に救いをもたらしたのです。

祈りの中心とは

 教会の鐘は、人々に礼拝の始まりを知らせる大切な合図です。しかし祈りに来る一人ひとりが自分のためだけに祈りをささげているのなら、本当に救いがあるのでしょうか。教会の中心は「私」ではなく「キリスト」です。イエスは、どれだけ私たちの人生の経験を持ってしても超えられない救いです。私たちは誰のために祈り、誰のために生きるのでしょうか。

2018年8月 1日 (水)

教会便り8月号

現代の毒

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 8月です。夏が到来しました。今年の夏は、例年と比較できないほどの暑さとなりました。少し前までクーラーは「身体に毒」と思われていました。しかしクーラーがこの世に登場してから今日までの間に、その技術は進歩し、身体への負担がかなり軽減されました。今では、気象庁が熱中症対策としてクーラーを推奨しているくらいです。しかし「身体に毒」という先入観は、捨てきれません。しかし毒を用いて命を守る行動を取ることが、実は正しかったとしたらどうでしょうか。

毒麦のたとえ

 新約聖書『マタイによる福音書』に「毒麦のたとえ」という、イエスが天の国をたとえたお話があります。ある良い人が畑に麦の種を蒔いたのですが、人々が眠っている間に敵が来て、畑の中に毒麦を蒔いていきました。麦が実る頃には、畑に毒麦も現われましたが、良い麦と混ざっています。畑で働く人々は、主人に毒麦を抜き集めることを提案しますが、主人は「毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と刈り取る者に言いつけよう。」と語ります。このお話では、イエスが再びこの世界へやって来られる時に、神様の御心に適った生き方をした人と、自分中心・人間中心の生き方をした人を判断することがたとえられています。つまり良い麦は、神様の御心に適った神様中心・隣人中心の生き方をした人、毒麦は自分中心・人間中心の生き方をした人を意味しているのです。自分では、より良い生活を送り、他者よりも優れた考えを持っているはずだと思っていても、それは天の国では毒にしかならないのです。一方で、自分の利益にならないような「人助け」や「祈り」は、天の国にとって良き薬になるということです。

「誤解」という名の毒

 今の私たちにとっての毒とは、一体何でしょうか。「毒麦のたとえ」で、主人は毒麦と良い麦を識別する難しさを語っています。私たちの生活の中にも、毒と思われるものは多くあるでしょう。しかしそれは、本当に「毒」なのでしょうか。最大の毒は「誤解」です。誤解によって傷つけられることもあれば、傷つけてしまうこともあります。誤解さえなければ助かった命もあるはずです。私たちにとって最大の誤解は、「こうあるべきだ」という先入観です。この誤解を信じてしまうことで、刈り入れの時に私たち自身が毒にならないように気をつけなければなりません。

2018年7月 1日 (日)

教会便り7月号

身を守る

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

近年、老後破産という言葉をよく耳にします。定年退職した後、自分の貯金では生活できないことに気づく方が多い、とのことです。それまでは「何とかなる」と思っていても、現実は想像以上に費用がかかるために何ともならなくなってしまう。現代を生きる私たちは、昔に比べて自分の身を守る必要が高まっていると言えるのかもしれません。しかし自分だけを守っていると、今度は他者との関係を煩わしく思うこともあります。「自分さえ良ければ、それで良い」という考え方です。

富を積む

 新約聖書『ルカによる福音書』12章でイエスは、次のようなたとえ話を語られます。ある金持ちが倉庫に入らないくらいの収穫を得ました。金持ちは考えた末、持っている倉庫を壊して新しい倉庫を建てることで、収穫した作物や自分の財産を全部しまって「これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と自分自身に語ります。しかし神は、この行動を見て「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と金持ちを叱られます。自分の身を自分で守る行動を取った金持ちのどこに問題があるのでしょうか。不正をするわけでもなく、自分の努力で築き上げた財産で生活することに何の問題があるのでしょうか。この金持ちの唯一の間違いは、他者を見ずに自分しか見ていないことです。私たちは、必ず死にます。しかし死後の世界まで自分の富を持っていくことはできません。つまり自分自身を救うことはできないのです。天に富を積む方法は一つです。それは、自分が助けられる範囲で人を助けることです。

人助けとは、一方通行ではありません。困難な状況になると、今度はその恩を感じた人々が助けてくれます。この様にして私たちは、互いに助け合うことで天に富を積み、自分の身を守ることができるのです。

真の身の守り方

 喜びは独り占めするのではなく、誰かと分かち合う。同じように苦しみも誰かと分かち合えれば、苦しみは少し減ります。私たちは、この様にして他者と共に身を守ることができるのです。イエスは、人々が幸せになれる世界を実現するコツとして「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」(マタイ7:12)と語られました。これが神から私たちに与えられた「身の守り方」なのです。

 

2018年6月 1日 (金)

教会便り6月号

時代の流れ

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 時代が進むにつれ、過去に「良い」と思われていた医学的知識の中に間違いがあることがわかったと、最近のテレビ番組でよく言われています。例えば、擦り傷ができたら傷口を乾燥させてかさぶたを作ればすぐ治るというものですが、これは現代では間違いとされ、傷口を潤す方が良いとされるようになりました。医療だけでなく教育や保育などにおいても、時代が進むにつれて「良い」ことが進化していきます。現代で新しい方法が見出され、それまで自分が疑いもなく「良い」と思っていたものがなくなっていくのは、何故なのでしょうか。

神の宣教

 教会においても、時代が進むにつれ多くのものが進化し、その中でも「神様はどこにいるのか」という考え方が大きく変わりました。20世紀以前、教会は「神様は教会から世界へと働きかけておられる」と理解していました。つまり教会が神様からの特別な存在として理解されていたのです。しかし20世紀に入った頃、神様は教会の外で苦しんでいる人のために自ら働いておられるということがわかり、「教会は神様が造られた世界の中の一部」であると、それまでと真逆の理解がなされました。つまり神様は教会だけにではなく、教会と世界に働きかけられ、教会は神様にだけではなく、神様と世界に働きかける場所と捉えられるようになりました。この理解によって、教会は「人が救いを求めに来る場所」から「人を救いへと招く場所」へと変化していきました。恐らくこの転換期にも、「私たちの時代は違った」という過去に経験を積んだ人々と新しい時代の人々との間で、意見の衝突があったと思われます。この問題をどの様に解決していったか定かではありません。

「良い」とは

 私たちが「良かった」と思うものが後世に残らないのは、何故なのでしょうか。旧約聖書『創世記』に記されている天地創造物語で、神様はご自分が創造された世界をご覧になった時に「それは極めて良かった」と語られました。この極めて良い世界は未だに続いています。どれだけ時代が進んだとしても、自分にとって「良い」ものではなく、神様が「極めて良かった」と思われるものを残すことが私たちの役目なのかもしれません。そのためにも私たちは自分が思う「良い」ものを残すのではなく、全ての人々が「良い」と思えるものを残すことが大切なのかもしれません。読者の皆様はどう思われるでしょうか。

2018年5月 1日 (火)

教会便り5月号

その声を聞く

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

五月になると「五月病」という言葉をよく耳にします。症状は人によって様々ですが、睡眠障害や免疫力低下といった症状も報告されています。このことからも五月病は、一概に「気分の問題」ではないということがわかります。一方で五月病は、聞く人によって「放っておけばすぐに治る」と楽観視されてしまい、本当に辛い気持ちであったとしても、自分の辛さが認めてもらえないこともあるようです。

「辛い」という一声を発する側にはかなりの勇気が必要です。しかし聞く側はその勇気に気づかない場合があります。私たちにはこの「他者の苦しみ」を理解しようとするための「聞く」力が乏しいのかもしれません。

聞いてもらえる喜び

新約聖書『マルコによる福音書』に、バルティマイという盲人のお話があります。聖書の時代、目が見えない人々は仕事に就けず、道端で物乞いとして生活する以外に方法がありませんでした。しかし誰も望んで盲人になるわけではありません。バルティマイも目が見えるようになりたかったのです。そんな時に、イエス・キリストが自分の近くを通ることを知ったバルティマイは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」(マルコ10:48)とイエスに大声で助けを求めます。多くの人々は、バルティマイの行動を良く思わずに彼を叱りつけます。人々にとってバルティマイの叫び声は邪魔だったのです。しかしイエスだけはバルティマイの声を聞き、バルティマイを近くに呼び寄せ、彼の願いであった「目が見えるようになる」生活を与えられたのです。その時バルティマイは、唯一の財産であった上着を脱ぎ捨てるほど喜んだのです。声を聞いてもらえることすら困難であったバルティマイにとって、自分の苦しみをただ「聞いてもらえる」と確信したことが何よりも喜びだったのです。

神に遣わされた人

 自分が「苦しい」「辛い」ということを他者に語ろうとする時、「放っとけば大丈夫」「我慢しろ」など、発言者の勇気が全く受け止められないのは何故でしょうか。この様な答えが返ってくるかもしれないと思って、自分の辛さを表沙汰に出来ずに苦しみ続けてしまって良いのでしょうか。イエスは人々から声をかけることを拒まれたバルティマイの声を聞かれました。私たちが誰かに助けを求められるのは、私たちがその人から信頼されているからです。つまりその声を聞いた私たちは、その人にとって神から遣わされた唯一の救いなのです。

一方で弱音を吐く相手がいないと思う方もいると思います。あなたの近くにその弱音を受け止めてくれる人は必ずいます。その人が、あなたにとっての救いであるのかと躊躇されるかもしれませんが、その人があなたを救いへ導く神様からのみ使いなのかもしれないのです。

 

2018年4月 9日 (月)

地震経過

4月9日(日)午前1時32分に発生した地震は浜田市内でも震度4を観測されました。幸い当教会や近隣に被害はありませんでした。

 

2018年4月 1日 (日)

教会便り4月号

新たなる希望

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

春になり、新しい生活をスタートされる方も多いと思います。新しい生活の中には、私たちが今まで知らなかったことや快く思わないことを受け入れなければならない現実が待っていることもあります。先日あるTVドラマで、登場人物が「私は今まで自分が知らないことを排除することで生きていました。」と語る場面を見ました。知らないものを排除することは簡単です。どれだけ時代の波に乗った考え方でも、今までの自分を変えることが面倒なので「知りたくない」と思ってしまうのは、人間の弱さでもあるのだろう、と考えさせられる台詞でした。

嫌なものを排除する

 聖書の中でも嫌なことから逃げようとする人々が多く登場します。その最たる例がイエス・キリストが直接任命した弟子、使徒たちです。使徒たちは自分たちを救いへ導いてくれると期待していたイエスが逮捕され、十字架にかかって死刑となったことを目の当たりにしました。しかし彼らは人々から「イエスと一緒にいた」と知られると、自分たちも拷問を受けて殺される、と恐れたのでイエス様を見捨てて逃げ去ったのです。そしてイエスの十字架の死から3日間、家に鍵をかけて隠れていました。使徒たちにとってイエス不在という新しい生活は、イエスを見殺しにしたことと自分たちが殺されるかもしれない、という受け入れたくない現実から始まったのです。しかし、彼らの前に復活したイエスを目撃したマグダラのマリアから「ガリラヤへ行くように」に伝えられます。彼らがガリラヤへ行くと復活したイエスが待っていたのです。そして、世界中にイエスの教えと人々に洗礼を授けるという使命を使徒たちに与えられたのです。このようにして、使徒たちは受け入れられなかった現実を受け入れ、死を恐れない新しい自分として新生活をスタートさせたのです。イエスを見殺しにした使徒たちにとって復活のイエスとの出会いは、自分の弱さを受け入れるという新たなる希望を持つことだったのです。

新しい自分へと復活する

 新生活は希望と期待が大きい反面、その反動も大きい場合があります。しかし恐れることはありません。新しい生活で出来ないこと、受け入れられない現実に直面した時こそ、私たちは新しい自分へと変えられるチャンスの時なのです。そこで自分の弱さを排除せずに、受け入れましょう。使徒たちが自分たちの弱さを排除しながらも、イエスが受け入れてくださったように、あなたを受け入れてくれる人は必ず存在します。この新たなる希望を胸に新しい生活を歩んでいきましょう。

2018年3月 1日 (木)

教会便り3月号

大斎節

司祭 バルナバ 瀬山会治

 大斎節は、元々その年の復活日に洗礼の恵みを受ける方の準備として、また罪を悔い改めた人の学びと霊的成長のために守られてきましたが、すべてのクリスチャンにとっても重要なこととして教会は古くから大斎節を守ってきました。なぜなら、大斎節には、自らの信仰、つまり、神様とわたしの関係を見つめ直し、さらなる信仰的な成長を果たすことが、その目的とされてきたからに他なりません。走り続けている生活では、なかなか立ち止まって考えることは難しいものですが、一度、止まって周囲を見回すと思わぬ神様の恵み、信仰の喜びを発見するものです。

いのちの水

 一人の旅人が「いのちの水」を求めて旅をしていました。いのちの水を飲むと永遠のいのちを手に入れることができると聞いたからです。その旅人は戦士でした。彼はいのちの水は、強い力によって守られていると思い、いつでもどんなに強い敵とでも戦えるように強固な鎧を身に着け、よく切れる剣を携え、力ずくで命の水を手に入れるつもりでした。しかし、長い旅をし、苦労してやっとたどり着いた「いのちの水」が湧き出る泉を見たとき、彼は驚きました。いのちの水は力づくで勝ち取るものではなかったからでした。その水は何の囲いもなく、見張り役の番兵もいない、小さな泉から湧き出している水だったからです。ただ、湧き出る水を飲むためには、かがまなければなりませんでした。けれども、戦士は鎧が邪魔をして、ひざを落としてかがむことができませんでした。そして、そのとき彼は気づいたのでした。永遠のいのちを手に入れるためには、強い力は必要ではないと言うことを。そして、謙虚な気持で神様のみ前にひざまずくことが大切であると言うことを。

お礼のことば

 2年間と言う短い間でしたが、浜田基督教会の管理牧師をさせていただき、お世話になりましたことをお礼申し上げます。しかし、同じ山陰伝道区ですし、聖バルナバ保育園の行事などでこれからも訪れさせていただきます。ですから、悲しいお別れと言うことはありません。むしろ、この私の母教会であり、両親や親族の遺骨もありますので、これからも皆様方には、いろいろとお世話になることがあろうかと思います。最後になりましたが、皆様の上に神様の祝福が豊かにありますようお祈りいたします。

2018年2月 1日 (木)

教会便り2月号

現代の荒野

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

毎年2月14日はバレンタインデーですが、今年の教会の暦では大斎始日となりました。「大斎節(四旬節/レント)」とは、復活日(イースター)までの日曜日を除く40日間、心の準備期間として守られます。また大斎節でもう一つ覚えなければならないことは、新約聖書マタイによる福音書第4章に記されているイエスの荒野の誘惑です。「荒野」とは広い砂漠を意味しますが、聖書の荒野はサラサラな砂がある「砂漠」ではなく、地面に水分がないカラカラの状態で雑草すら生えない環境のことです。辺りにあるのは岩ばかりで言わば「何もない世界」です。

何もない世界

 イエスはこの荒野で40日間断食されながら、悪魔から誘惑を受けられました。悪魔は断食しているイエスに対して「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と誘惑します。イエスは神様の力を持っているのですから、腹が空けば石でもパンに変えられる力はあったはずです。まして「何もない世界」である荒野で飢えを覚えているのですから、自分以外に救いはないはずです。しかし、そうされなかった。なぜでしょうか。その答えが「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ3章4節)という言葉です。腹が減って動けず、誰も助けてくれず、自分で自分を救えない。この人間の限界を神の子イエスは経験されたのです。この限界の中でもイエスは自分のために神様の力は使わず「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と語られました。つまり、八方ふさがりになった時こそ神様に頼ることを選ばれたのです。

人間の限界

人間は「何もない世界」では自分を救うことは出来ません。これが人間の限界です。しかし、この限界の時にこそイエスの荒野の経験を通して人間の苦しみを知った神様が私たちを必ず助けてくれるのです。

 今の生活の安定。将来の不安。また自分の不安を共感してもらえないことなど。この世は荒野ばかりです。この荒野を一人で乗り切るのは不可能です。そんな時、私たちは孤独になり心が渇ききってしまうのですが、神様は私たちの不安を理解してくださっているのです。自分自身ではなく神様に頼りながら生きる。この生き方によって、私たちの心は神様によって潤い、現代の荒野を乗り切ることが出来るのです。この想いを胸に大斎節を過ごしてゆきましょう。

2018年1月 4日 (木)

教会便り1月号

新しい年・新しい自分

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 新年を迎えると「今年の目標は?」という質問をすること、されることがあると思います。新しい1年の始まりに「今年こそは!」と、新たな自分になろうとする姿勢なのかもしれません。しかし、私たちは新しい自分になろうとしても「○○であるべきだ」という「常識」にとらわれてしまい、結局新しい自分に変わることが出来ないこともあります。「常識」は秩序を保つために守られますが、常識にとらわれすぎてしまうと新しい自分を見失ってしまう、これでは何も変えることができません。

キリストが生まれた理由

 新約聖書のクリスマス物語で、出産間近のマリアには、安全に子どもを産める場所がありませんでした。「宿屋には、彼らの泊まる場所がなかったから」(ルカ2:7)です。そして、マリアとヨセフがたどり着いたのが馬小屋でした。しかしマリアにとって、この出産するのに不適切な場所が「今」安心できる場所となったのです。このマリアの判断こそ、神様が「今」というタイミングでマリアを導かれるきっかけとなったのです。その結果、この世界に新しい王イエスが馬小屋で産声あげました。そして成人したイエスは、昔から続く神様からユダヤ人に与えられた「律法」に固執された世界で、神様からの新しい教えを語られました。それは、昔から続いた「律法」をなくすためではなく、「完成」するためだったのです。つまり「古き良き伝統」であった秩序が、「新しいもの」に生まれ変わることで神様と人間が一緒に喜び合えるようになる、そのためにイエスは、この世界にお生まれになったのです。しかし当時の人々にとって、イエスの判断はすべて非常識でした。だから、最後は妬みによって十字架に付けられたのです。

常識にとらわれない神

私たちの世界は、神様の目から見れば不完全な世界です。今のままでは、神様と人間が一緒に喜び合える世界「神の国」は完成しません。しかし、私たちは完全な世界へと向かうことが出来ます。それが常識にとらわれることなく、人々が喜ぶことを「今」考え、行なうことなのです。マリアたちの非常識な判断によって、人々を苦しみから解き放つ、キリストという新しい王がお生まれになり、神の国が近づきました。そしてイエスも、当時は「非常識」と思われていた考え方や行動によって、人々を苦しみや悲しみから解放されました。これらはマリアとイエスの「今」の判断が神様によって導かれた結果なのです。

常識や経験にとらわれることなく、神様の時を感じることで新しい自分へと変われるように2018年を歩んでいきましょう。

 

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