3.牧師より

2018年12月 1日 (土)

教会便り12月号

クリスマスプレゼント

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 「プレゼント」という言葉の価値が少しずつ変わっているように感じるお話を耳にしました。「贈り物(プレゼント)をもらうと、お返しをしなければならない。」「頂くのは嬉しいけど、返すのが大変だから、贈り物はいただかないほうが有り難く思う時がある。」というものです。貰うのは嬉しいけれども、返すのはそれ以上に精神的や経済的な負担が大きいから疲れるということなのでしょうか。こうなるとプレゼントを贈る側も贈られる側もドキドキやワクワクといった感覚がなくなり、誰にも何も与えない方がよいのではないだろうかと考えてしまうかもしれません。

お返し不要のプレゼント

 新約聖書『マタイによる福音書』のクリスマス物語では、東方から占星術の学者たちが、新しい王の誕生をお祝いするために、生まれたばかりのイエス様のもとを訪れます。彼らは生まれたばかりの幼子イエス様に、黄金、乳香、没薬のプレゼントを献げます。しかし聖書には彼らがプレゼントを献げたことは書かれているのですが、イエス様や両親のマリアとヨセフからの御礼があったとは書かれていません。また学者たちは、プレゼントを渡すとすぐに自分たちの国へ帰っていきました。新しい王様にプレゼントしたのですから、何らかの見返りを求めたとしても不思議ではありません。しかも聖書には、これ以降学者たちが登場しませんし、イエス様が貰ったプレゼントをどうしたかということも記されていません。そこに「Give and Take」という考え方はないのです。なぜなら学者たちにとって、この世の苦しみを一人で負う神様からの使命を受けた新しい王であるイエス様がお生まれになったことが、何よりの喜びだったからです。

無償の愛

 プレゼントを贈られるととても嬉しいものです。また贈る方にも喜んでいただけると尚更です。プレゼントは、お互いが喜び合えるために贈る私たちの目に見える愛の形でもあります。幼子イエス様は、私たち人間を苦しみから解き放つためにお生まれになりました。しかし私たちは、幼子イエス様というプレゼントを「お返しをしなければならないから、いらない」と拒否するのでしょうか。イエス様に直接、プレゼントをお返しする必要はありません。私たちに与えられた「苦しみから解き放たれる」という奇跡を信じることで、私たちは既に幼子の愛に応えているのです。

 無償で与えられるものが、自分を苦しみから解き放ってくれるもの、その大きさに気づいたとき、私たちは本当のクリスマスプレゼントの喜びを感じることが出来るのです。

 

2018年11月 1日 (木)

教会便り11月号

現代の亡霊

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 11月は、教会の暦で逝去者の月と呼ばれています。7年前、イギリスのカデスドンという小さな街へ行った時のことです。街の教会へ立ち寄ってみると、敷地内に墓地がありました。中には100年以上前の墓石もありましたが、ほとんどの墓石には苔がついており、手入れをされた痕跡はありません。牧師に尋ねてみると、「イギリスでは誰も墓守をしない」ということでした。死者を大切にしていないと少し驚きましたが、これは文化の違いです。イギリスでは、逝去記念日に礼拝の中で牧師と信徒一同が逝去者を覚えて祈りをささげます。そして11月には、全ての逝去者を覚えて教会全体で祈りがささげられます。しかしなぜ私たちは、逝去者の魂の平安を祈るのでしょうか。

逝去者と亡霊

 逝去者記念は、亡くなった方を個別に記念し、主にある交わりをともにする祈りです。ここで注意したいことは、亡くなった方と自分との個人的な関係だけにとどまらず、「主にある交わりとともに」あるということです。つまり逝去者記念において、「あの人と私だけの思い出を大切にする」だけでなく、「あの人と出会えたことやその思い出は、神様によって与えられた」と信じることが大切なのです。しかし、この「主にある交わり」を、この世を生きる私たちが忘れてしまうと、徐々に逝去者を神様のように感じてしまうことがあります。その結果、逝去者との形見や思い出にしがみついてしまい、人生の時計の針を前に進められなくなることもあります。それはまるで逝去者が亡霊となって、その人に取り憑いているようにも見えます。この様に私たちが愛し、親しんだ逝去者たちを亡霊にしないために「主にある交わりとともに」という言葉が大切なのです。

記念とは

イエス・キリストは、最後の晩餐の際に「わたしを記念するため」と語られました。この「記念する」とは、過去に起こったことを思い出すだけでなく、現在にまで及ぼし続ける過去を想い起こすことです。逝去者記念の場合、自分と逝去者との過去の思い出だけを大切にするのではなく、神様によって今を生きる私たちと逝去者とが一緒に歩み続けることを意味しているのです。

死者との関係は過去のものではありますが、逝去者とともに未来を歩むことでもあります。「主にあって」逝去者と神様とともに未来への第一歩を歩んで参りましょう。

2018年10月 1日 (月)

教会便り10月号

遺書と遺言書

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 皆さんは、「遺書」と「遺言書」の違いをご存じでしょうか。遺書とは、「私が死んでも家族仲良く過ごしておくれ」など、故人から家族などへ送られる「言葉」のことです。一方で遺言書は、「私が死んだ後、財産を○○に相続させる」と相続について具体的に記されているものです。後者は正しく記せば法的効力を持ちますが、前者には法的効力は全くありません。つまり自分が死ぬ前に伝えた「言葉」は、悲しい話ですが法的に何の価値もないのです。しかし、それを知らずに「もう伝えてあるから大丈夫」と思ってしまうと、旅だった後に家族で一悶着起こってしまうこともしばしばあるようです。

聖書が生まれた理由

 新約聖書の時代、文字を読める人が少なかったので、情報は人の口を通して伝えられていました。所謂「口伝」です。教会もイエス・キリストの言葉を直接聞いた使徒たちによって口伝で人々に伝えられました。しかし使徒たちのようにイエスを「直接見た」世代や「直接聞いた」世代がこの世を去ってしまったので、イエスの情報を正しく口伝で伝えることが難しくなってきました。そこで教会は、文字が読める教養ある人々を通して、イエスの言動や使徒たちの活躍を文字にして後世に伝えたのです。これが新約聖書の始まりです。そこには、当時の教会が抱えていた問題などの背景が垣間見える一方で、その問題が解決できたことも垣間見えます。イエスの存在が、当時の人々にとって都合の良い存在だったと偽りの姿が記されることなく、正しく記されたことによって、歴史的価値とその信憑性が高まり、その効力は教会によって現代まで続いているのです。それは、かつてイエスに救われた人々が、その救いの喜びを次の世代に正しく伝えようとしたからです。そういった意味では、聖書は「遺書」よりも「遺言書」と似ているのかもしれません。

残されたもの

 「自分が死んでも自分の意思は尊重される」と思っていても、それが残された者に正しく伝わらなければ無意味なものになってしまいます。イエスが私たちに残されたのは、不必要なものだったのでしょうか。そうではありません。十字架にかかったイエスによって人間の痛みや悲しみを神様が共感してくださる喜び、そしてイエスの復活によって私たちが苦しみから復活できることが新約聖書に詳しく記されています。私たちが苦しい時に喜びに満たされるために、聖書のみ言葉が残されたのです。

2018年9月 1日 (土)

教会便り9月号

誰がために鐘は鳴るのか

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 8月、徳島市で夏の風物詩である阿波踊りの「総踊り」が強行されました。もともと「総踊り」は、4日間行なわれる阿波踊りの最終日、様々な団体が団結して年に1度だけ行なわれる全国的にも有名な行事です。しかし今年は、様々な理由から市長がこの「総踊り」を中止することを決意しました。市長には市長なりの意見があったようですが、毎年行なわれていた行事のいきなりの「中止」に市民は納得できませんでした。その結果「総踊り」は強行されたのです。市民と市長の意見が阿波踊りのために真っ二つになってしまう、こうなると「総踊り」は、いったい誰のためのものなのか、とも思えてしまいます。

独り占め

 今から2000年前、教会が誕生したばかりの時代、教会はどの様にして人々を教会に招いたと思われますか。偉い牧師や立派な信徒さんが頑張ったと思われるかもしれません。実は、教会に人々を招いていたのは無学な一般信徒だったのです。彼らは自分たちがイエス・キリストと出会ったことで、自分の苦しみを理解してくださる神様の存在を知り信仰に入りました。そして自分たちが救われたことを喜び、その喜びを洗濯場や市場などの世間話の中で語ったのです。つまり神様からの救いを独り占めすることなく、喜びを他の人にも分けようとしたのです。

 イエス自身、この世に来られたのはご自分の意志ではなく「わたしをお遣わしになった天の父の意志」と語られました。十字架の死と復活は、イエスの意志ではなく神様の意思であり、自分をこの世に示すためではなく、全ての人の苦しみと悲しみを理解し、それから解放するためだったのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来た」(マルコ10章45節)とあるように、イエスは自分のためではなく神様と他者のためにこの世に救いをもたらしたのです。

祈りの中心とは

 教会の鐘は、人々に礼拝の始まりを知らせる大切な合図です。しかし祈りに来る一人ひとりが自分のためだけに祈りをささげているのなら、本当に救いがあるのでしょうか。教会の中心は「私」ではなく「キリスト」です。イエスは、どれだけ私たちの人生の経験を持ってしても超えられない救いです。私たちは誰のために祈り、誰のために生きるのでしょうか。

2018年8月 1日 (水)

教会便り8月号

現代の毒

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 8月です。夏が到来しました。今年の夏は、例年と比較できないほどの暑さとなりました。少し前までクーラーは「身体に毒」と思われていました。しかしクーラーがこの世に登場してから今日までの間に、その技術は進歩し、身体への負担がかなり軽減されました。今では、気象庁が熱中症対策としてクーラーを推奨しているくらいです。しかし「身体に毒」という先入観は、捨てきれません。しかし毒を用いて命を守る行動を取ることが、実は正しかったとしたらどうでしょうか。

毒麦のたとえ

 新約聖書『マタイによる福音書』に「毒麦のたとえ」という、イエスが天の国をたとえたお話があります。ある良い人が畑に麦の種を蒔いたのですが、人々が眠っている間に敵が来て、畑の中に毒麦を蒔いていきました。麦が実る頃には、畑に毒麦も現われましたが、良い麦と混ざっています。畑で働く人々は、主人に毒麦を抜き集めることを提案しますが、主人は「毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と刈り取る者に言いつけよう。」と語ります。このお話では、イエスが再びこの世界へやって来られる時に、神様の御心に適った生き方をした人と、自分中心・人間中心の生き方をした人を判断することがたとえられています。つまり良い麦は、神様の御心に適った神様中心・隣人中心の生き方をした人、毒麦は自分中心・人間中心の生き方をした人を意味しているのです。自分では、より良い生活を送り、他者よりも優れた考えを持っているはずだと思っていても、それは天の国では毒にしかならないのです。一方で、自分の利益にならないような「人助け」や「祈り」は、天の国にとって良き薬になるということです。

「誤解」という名の毒

 今の私たちにとっての毒とは、一体何でしょうか。「毒麦のたとえ」で、主人は毒麦と良い麦を識別する難しさを語っています。私たちの生活の中にも、毒と思われるものは多くあるでしょう。しかしそれは、本当に「毒」なのでしょうか。最大の毒は「誤解」です。誤解によって傷つけられることもあれば、傷つけてしまうこともあります。誤解さえなければ助かった命もあるはずです。私たちにとって最大の誤解は、「こうあるべきだ」という先入観です。この誤解を信じてしまうことで、刈り入れの時に私たち自身が毒にならないように気をつけなければなりません。

2018年7月 1日 (日)

教会便り7月号

身を守る

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

近年、老後破産という言葉をよく耳にします。定年退職した後、自分の貯金では生活できないことに気づく方が多い、とのことです。それまでは「何とかなる」と思っていても、現実は想像以上に費用がかかるために何ともならなくなってしまう。現代を生きる私たちは、昔に比べて自分の身を守る必要が高まっていると言えるのかもしれません。しかし自分だけを守っていると、今度は他者との関係を煩わしく思うこともあります。「自分さえ良ければ、それで良い」という考え方です。

富を積む

 新約聖書『ルカによる福音書』12章でイエスは、次のようなたとえ話を語られます。ある金持ちが倉庫に入らないくらいの収穫を得ました。金持ちは考えた末、持っている倉庫を壊して新しい倉庫を建てることで、収穫した作物や自分の財産を全部しまって「これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と自分自身に語ります。しかし神は、この行動を見て「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と金持ちを叱られます。自分の身を自分で守る行動を取った金持ちのどこに問題があるのでしょうか。不正をするわけでもなく、自分の努力で築き上げた財産で生活することに何の問題があるのでしょうか。この金持ちの唯一の間違いは、他者を見ずに自分しか見ていないことです。私たちは、必ず死にます。しかし死後の世界まで自分の富を持っていくことはできません。つまり自分自身を救うことはできないのです。天に富を積む方法は一つです。それは、自分が助けられる範囲で人を助けることです。

人助けとは、一方通行ではありません。困難な状況になると、今度はその恩を感じた人々が助けてくれます。この様にして私たちは、互いに助け合うことで天に富を積み、自分の身を守ることができるのです。

真の身の守り方

 喜びは独り占めするのではなく、誰かと分かち合う。同じように苦しみも誰かと分かち合えれば、苦しみは少し減ります。私たちは、この様にして他者と共に身を守ることができるのです。イエスは、人々が幸せになれる世界を実現するコツとして「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」(マタイ7:12)と語られました。これが神から私たちに与えられた「身の守り方」なのです。

 

2018年6月 1日 (金)

教会便り6月号

時代の流れ

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 時代が進むにつれ、過去に「良い」と思われていた医学的知識の中に間違いがあることがわかったと、最近のテレビ番組でよく言われています。例えば、擦り傷ができたら傷口を乾燥させてかさぶたを作ればすぐ治るというものですが、これは現代では間違いとされ、傷口を潤す方が良いとされるようになりました。医療だけでなく教育や保育などにおいても、時代が進むにつれて「良い」ことが進化していきます。現代で新しい方法が見出され、それまで自分が疑いもなく「良い」と思っていたものがなくなっていくのは、何故なのでしょうか。

神の宣教

 教会においても、時代が進むにつれ多くのものが進化し、その中でも「神様はどこにいるのか」という考え方が大きく変わりました。20世紀以前、教会は「神様は教会から世界へと働きかけておられる」と理解していました。つまり教会が神様からの特別な存在として理解されていたのです。しかし20世紀に入った頃、神様は教会の外で苦しんでいる人のために自ら働いておられるということがわかり、「教会は神様が造られた世界の中の一部」であると、それまでと真逆の理解がなされました。つまり神様は教会だけにではなく、教会と世界に働きかけられ、教会は神様にだけではなく、神様と世界に働きかける場所と捉えられるようになりました。この理解によって、教会は「人が救いを求めに来る場所」から「人を救いへと招く場所」へと変化していきました。恐らくこの転換期にも、「私たちの時代は違った」という過去に経験を積んだ人々と新しい時代の人々との間で、意見の衝突があったと思われます。この問題をどの様に解決していったか定かではありません。

「良い」とは

 私たちが「良かった」と思うものが後世に残らないのは、何故なのでしょうか。旧約聖書『創世記』に記されている天地創造物語で、神様はご自分が創造された世界をご覧になった時に「それは極めて良かった」と語られました。この極めて良い世界は未だに続いています。どれだけ時代が進んだとしても、自分にとって「良い」ものではなく、神様が「極めて良かった」と思われるものを残すことが私たちの役目なのかもしれません。そのためにも私たちは自分が思う「良い」ものを残すのではなく、全ての人々が「良い」と思えるものを残すことが大切なのかもしれません。読者の皆様はどう思われるでしょうか。

2018年5月 1日 (火)

教会便り5月号

その声を聞く

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

五月になると「五月病」という言葉をよく耳にします。症状は人によって様々ですが、睡眠障害や免疫力低下といった症状も報告されています。このことからも五月病は、一概に「気分の問題」ではないということがわかります。一方で五月病は、聞く人によって「放っておけばすぐに治る」と楽観視されてしまい、本当に辛い気持ちであったとしても、自分の辛さが認めてもらえないこともあるようです。

「辛い」という一声を発する側にはかなりの勇気が必要です。しかし聞く側はその勇気に気づかない場合があります。私たちにはこの「他者の苦しみ」を理解しようとするための「聞く」力が乏しいのかもしれません。

聞いてもらえる喜び

新約聖書『マルコによる福音書』に、バルティマイという盲人のお話があります。聖書の時代、目が見えない人々は仕事に就けず、道端で物乞いとして生活する以外に方法がありませんでした。しかし誰も望んで盲人になるわけではありません。バルティマイも目が見えるようになりたかったのです。そんな時に、イエス・キリストが自分の近くを通ることを知ったバルティマイは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」(マルコ10:48)とイエスに大声で助けを求めます。多くの人々は、バルティマイの行動を良く思わずに彼を叱りつけます。人々にとってバルティマイの叫び声は邪魔だったのです。しかしイエスだけはバルティマイの声を聞き、バルティマイを近くに呼び寄せ、彼の願いであった「目が見えるようになる」生活を与えられたのです。その時バルティマイは、唯一の財産であった上着を脱ぎ捨てるほど喜んだのです。声を聞いてもらえることすら困難であったバルティマイにとって、自分の苦しみをただ「聞いてもらえる」と確信したことが何よりも喜びだったのです。

神に遣わされた人

 自分が「苦しい」「辛い」ということを他者に語ろうとする時、「放っとけば大丈夫」「我慢しろ」など、発言者の勇気が全く受け止められないのは何故でしょうか。この様な答えが返ってくるかもしれないと思って、自分の辛さを表沙汰に出来ずに苦しみ続けてしまって良いのでしょうか。イエスは人々から声をかけることを拒まれたバルティマイの声を聞かれました。私たちが誰かに助けを求められるのは、私たちがその人から信頼されているからです。つまりその声を聞いた私たちは、その人にとって神から遣わされた唯一の救いなのです。

一方で弱音を吐く相手がいないと思う方もいると思います。あなたの近くにその弱音を受け止めてくれる人は必ずいます。その人が、あなたにとっての救いであるのかと躊躇されるかもしれませんが、その人があなたを救いへ導く神様からのみ使いなのかもしれないのです。

 

2018年4月 9日 (月)

地震経過

4月9日(日)午前1時32分に発生した地震は浜田市内でも震度4を観測されました。幸い当教会や近隣に被害はありませんでした。

 

2018年4月 1日 (日)

教会便り4月号

新たなる希望

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

春になり、新しい生活をスタートされる方も多いと思います。新しい生活の中には、私たちが今まで知らなかったことや快く思わないことを受け入れなければならない現実が待っていることもあります。先日あるTVドラマで、登場人物が「私は今まで自分が知らないことを排除することで生きていました。」と語る場面を見ました。知らないものを排除することは簡単です。どれだけ時代の波に乗った考え方でも、今までの自分を変えることが面倒なので「知りたくない」と思ってしまうのは、人間の弱さでもあるのだろう、と考えさせられる台詞でした。

嫌なものを排除する

 聖書の中でも嫌なことから逃げようとする人々が多く登場します。その最たる例がイエス・キリストが直接任命した弟子、使徒たちです。使徒たちは自分たちを救いへ導いてくれると期待していたイエスが逮捕され、十字架にかかって死刑となったことを目の当たりにしました。しかし彼らは人々から「イエスと一緒にいた」と知られると、自分たちも拷問を受けて殺される、と恐れたのでイエス様を見捨てて逃げ去ったのです。そしてイエスの十字架の死から3日間、家に鍵をかけて隠れていました。使徒たちにとってイエス不在という新しい生活は、イエスを見殺しにしたことと自分たちが殺されるかもしれない、という受け入れたくない現実から始まったのです。しかし、彼らの前に復活したイエスを目撃したマグダラのマリアから「ガリラヤへ行くように」に伝えられます。彼らがガリラヤへ行くと復活したイエスが待っていたのです。そして、世界中にイエスの教えと人々に洗礼を授けるという使命を使徒たちに与えられたのです。このようにして、使徒たちは受け入れられなかった現実を受け入れ、死を恐れない新しい自分として新生活をスタートさせたのです。イエスを見殺しにした使徒たちにとって復活のイエスとの出会いは、自分の弱さを受け入れるという新たなる希望を持つことだったのです。

新しい自分へと復活する

 新生活は希望と期待が大きい反面、その反動も大きい場合があります。しかし恐れることはありません。新しい生活で出来ないこと、受け入れられない現実に直面した時こそ、私たちは新しい自分へと変えられるチャンスの時なのです。そこで自分の弱さを排除せずに、受け入れましょう。使徒たちが自分たちの弱さを排除しながらも、イエスが受け入れてくださったように、あなたを受け入れてくれる人は必ず存在します。この新たなる希望を胸に新しい生活を歩んでいきましょう。

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