3.牧師より

2019年9月 1日 (日)

教会便り9月号

真のほれ込み

  司祭 セバスチャン 浪花朋久

 「ほれ込み」という言葉を耳にしたことがあると思います。この言葉は、主に恋愛や趣味に没頭する時に用いられますが、「ほれ込み」は、その対象を過大評価することがあります。ほれ込んだものを実際以上に過大評価してしまい、対象の問題を一切受け入れられない状態になるのです。ほれ込んだ対象への愛が深ければ深いほど、対象に問題があっても批判的な意見を受け入れられないので、対象の問題が解決されないのが「ほれ込み」の問題点ということになります。

ほれ込んだ弟子たち

 イエス・キリストの弟子たちも、イエスにほれ込んでいたことが新約聖書を読んでいると分かります。弟子のリーダーであるペトロは、イエスがユダヤ地方の王様になり、ユダヤ地方を支配するローマ帝国から独立してくださると信じていました。しかしイエスは、王様になるどころか十字架にかけられて殺されてしまいます。神様にとって、イエスが十字架にかかることが人間を救うために必要だったからです。新約聖書『マタイによる福音書』第16章では、イエスが、ご自分が十字架にかかることを弟子たちに予告されました。しかしペトロは、イエスから十字架の予告を聞いても「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と逆にイエスをいさめ始めます。このペトロの行動にイエスは、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」とペトロを叱ります。その後、イエスが十字架にかかったことによって、弟子たちのほれ込みは打ち砕かれたのです。ほれ込んでいるイエスの姿と神様から見たイエスの姿が一致していなければ、たとえイエスの救いが与えられていてもそれに気づくことがないということです。

間違いに気づく

 何かにほれ込むことは、決して悪いことではありません。しかし、ほれ込みによって間違いを受け入れざるを得ない場合、大いに傷ついてしまいます。私たちは、自分の弱さや間違いを受け入れることがなかなかできません。しかし間違いを受け入れていくことによって、私たちを如何なる苦しみや悲しみ、痛みからも解放してくださるイエスの救いが与えられていることに気づくことが出来るのです。

2019年8月 1日 (木)

教会便り8月号

変化する意味

  司祭 セバスチャン 浪花朋久

 7月18日(木)に京都市にある京都アニメーションという会社が放火され、34名の尊い命が奪われました。犯人は逮捕されましたが、放火した際に自身も重傷を負い、この原稿を執筆している時点で意識が回復していません。

 平成以降最悪の放火事件となったこの出来事は、当日の内に国内で大きく報道されると共に、世界各国でも大きく報道されました。そして世界の大企業や国連の事務総長からも哀悼の意が表明されました。この出来事から、「アニメ」が日本の文化の一つとして世界に周知されていることが理解できます。一昔前まで「アニメ」は、子どもたちや「オタク」と呼ばれる一部の人々のためのものと認識されていましたが、今や胸を張って「アニメは日本の文化」と言える時代になったのです。

十字架の意味

 あまり良くないと認識されていたものが、人々の心を動かすほどの良いものへと変化していくことがあります。キリスト教のシンボルである十字架もその一つです。新約聖書の時代、十字架はローマ帝国への反逆者を処刑するために用いられると共に、ローマ帝国に反逆を企てる人々への見せしめでもありました。では、なぜ処刑の道具であった十字架が、キリスト教のシンボル、しかも救いのシンボルへと変わったのでしょうか。それはイエス・キリストが十字架にかかったからです。イエスの十字架には、様々な意味があります。その一つが、苦しみや悲しみをはじめとしたありとあらゆる負の感情を、神様自身がイエスの肉体を通して感じることです。神様が私たち人間の、しかも誰にも理解されない苦しみや悲しみを誰よりも理解してくださり、共感してくださるために、イエスを十字架にかけられたのです。だから私たちは、十字架を見ることで自分の苦しみや悲しみから救われる確信を得ることができるのです。これが、十字架が処刑の道具から救いのシンボルへとその意味が変わっていった次第です。

救いのシンボル

 京都アニメーションの事件では、犠牲者をはじめ、事件を知った多くの人々が心に傷を負いました。この心の傷をイエスは十字架によって共感してくださっています。救いのシンボルである十字架を見つめながら日々を歩んで参りましょう。

2019年7月 1日 (月)

教会だより7月号

環境と生活

  司祭 セバスチャン 浪花朋久

 皆さんは、プラスチック問題をご存知でしょうか。例えば、魚が海に流されたプラスチックを餌と勘違いして食べてしまい、更にプラスチックを食べた魚を人間が食べることで、マイクロプラスチックが私たちの体内に取り込まれてしまう、或いは、土に埋めたプラスチックのせいで土壌が汚染されてしまうことなどです。このようなプラスチックが原因となる環境問題は、待ったなしの深刻な状況となっています。

 20世紀に入り、教会はある学者から、人が自分のために自然を搾取することが神様の意志であることから、「環境問題の原因がキリスト教にある」と批判されました。教会はこの批判を真摯に受け止め、旧約聖書『創世記』に記されている人間が「神の似姿」であることに立ち返り、人間と自然界との共存を意識していくように変わろうとしました。しかし今日になってプラスチック問題が話題になっているということは、私たち人間が、神様から義務付けられた自然の管理を蔑ろにしているということになるかもしれません。

支配と管理

 旧約聖書『創世記』第1章に記されている天地創造の物語において、神様は人間をご自分に似せて創造された後に、次のような言葉を語られています。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(1:29)。人間は、神様から自然界を「従わせ」「支配する」ことを義務づけられました。ここでいう「支配」とは、独裁者のような「支配」ではなく、支配を受ける側の世話をするという意味があります。つまり人間は、神様の代わりに自然界を「管理」することを神様から与えられているのです。

神の似姿

 私たち人間は、天地創造の物語にあるように「神の似姿」としてこの世界を歩んでいます。神様が創造されたこの世界を管理できるのは、人間だけに与えられた恵みです。そして「神の似姿」である私たちには、神様の代わりとなってこの世界を美しくできる力も与えられています。個人でできることには限りがありますが、ゴミの分別に気をつけるなど、小さなことからこの世界を美しくしていけるように歩んで参りましょう。

2019年6月 1日 (土)

教会便り6月号

かたちあるもの

  司祭 セバスチャン 浪花朋久

 全国の地下に水道管が設置されて50年以上が経ちましたが、近年になって水道管の老朽化が問題となっています。全国の水道管を整備するのには、130年以上かかると報じられています。設備するために一生懸命になってようやく完成したとしても、形あるものはいつか崩れてしまうのです。

バベルの塔

 旧約聖書『創世記』第11章に「バベルの塔」という物語が記されています。ノアの箱舟の後、人間の数が増え、世界中の人々が同じ言葉を話し、文明が発達してレンガとアスファルトを使うようになりました。人々は「さぁ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。」と語り合い、街に大きな塔を造ろうとします。しかし、これを見た神様が「直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」と人間たちにバラバラの言葉を使わせるようにしたことで、人々はコミュニケーションが取れなくなり、塔の建築を断念しました。

 人間は、自分たちが作り上げた文明や伝統が世々とこしえに残ると勘違いしてしまい、あたかも自分たちが作り上げた文明や伝統を神様と同等に捉えてしまうことがあります。これがバベルの塔が私たちに語っていることです。つまり人間が作り上げる形ある文化、伝統は必ず滅びる時が来るのです。神様は、人間がこの現実を受け入れられないからこそ、言葉を混乱させることでバベルの塔の建設を断念させたのです。

聖霊降臨日

 一方で、新約聖書『使徒言行録』第2章では、イエス・キリストが天に昇られた後、使徒たちに聖霊が降り、様々な国の言葉を話せるようになりました。その結果、使徒たちは言葉によってイエスのことを世界へ宣べ伝えていきます。使徒たちは、初めから教会を建てることを目的としたのではなく、あくまでもイエスのことを宣べ伝えることを目的としました。かたちあるものに限界があるからです。

 私たちは、無意識の内にかたちあるものにすがります。しかしイエスは、目に見えず、かたちもありません。このイエスが使徒たちに聖霊を与えたように、私たちを目に見えないけれども喜べる救いへと導いてくださるのです。

2019年5月 1日 (水)

教会だより5月号

わたしたちの時代

  司祭 セバスチャン 浪花朋久

 「私たちの時代は、こうだった」という言葉を、自分より下の世代の人々への説教で使うことがしばしばあるかと思います。しかし若い世代の人々は、自分たちの考え方こそが正しいと思ってしまい、世代の溝は深まるばかりです。どちらの時代の考え方も「その時」は正しいのですが、「その時」が過ぎてしまうと次の世代の人々へは理解されず、「その世代」の人々にしか適応できなくなってしまうこともあるのだと思います。そして誰もが「私たちの時代」という言葉をもって、他の世代の人々に押し付け合うことで、世代を超えた話し合いができなくなってしまうのではないでしょうか。

今あるもの

 新約聖書『マタイによる福音書』第17章には、イエス様の弟子たちが悪霊を追い出せなかった事に対して、イエス様が「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」(マタイ17章17節)と、時代を嘆かれる場面があります。しかしイエス様は、その後に「昔の方がよかった」ということを仰いません。イエス様は、ご自分がこの世を去った後(昇天した後)、誰も篤い信仰を持てないのではないかと嘆いていらっしゃるのです。つまりイエス様は、「古い」、「新しい」といった次元で物事を見ておられず、「今どの様にするべきか」ということを私たちに語っていらっしゃるのです。

「あれは古い考えだからダメ」とか、「新しい考えは好きではない」といった意見は多くあります。しかし大切なことは、「今」という時代を生きるために何が必要なのかということです。今の時代でも、状況によっては昔の考え方でうまくいくこともあります。また今の時代の感覚でしか考えられない問題もあります。それを判断する力が、「今」を生きる私たちに必要なのだと、イエス様は私たちに語っていらっしゃるのです。

新しい時代へ

 5月1日から令和の時代が始まります。どの様な時代になるかわかりませんが、私たちは「今」を生きています。新しい考え方が多く生まれてくると思いますが、古い考え方の全てが捨てられる訳ではありません。どの場面でどの様な考え方をするのかが、今を生きる最大の力となっていきます。昔と今の調和を実現するイエス様の導きのもと、新しい時代を歩んで参りましょう。

2019年4月 1日 (月)

教会便り4月号

人格と品格

  司祭 セバスチャン 浪花朋久

 3月21日に神戸聖ミカエル大聖堂で聖職按手式が盛大に執り行われ、一人の新司祭と一人の新執事が誕生しました。牧師になる人は、「神様から特別な祝福をもらった人」とよく言われることがあります。しかし牧師全員が超人的な能力を持っているわけではありませんし、人によって才能や学力も様々です。この様に、人によって才能や能力が異なることは聖職者だけに留まらず、多くの人々にも当てはまることです。自分の才能や能力を自覚した上でいざ新しい生活が始まると、今までの能力だけでは通用しない場合もあります。この現実を知ると、自分が不甲斐なく感じることもあるでしょう。

誰が決めるのか

 使徒聖パウロは、新約聖書『コリントの信徒への手紙Ⅰ』12章で、教会の中に様々な能力を持った人々がいることを記しています。「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」ここでは、有能な人物は一人だけではないということがわかります。大きなことが何も出来なくても、備品を管理する小さな奉仕や仕事や援助も大切な能力の一つなのです。しかし私たちは、時折高い能力だけに注目して低い能力を否定的に見がちです。そもそも能力の「高い・低い」は誰が、そしてどの様な基準で決めているのでしょうか。聖パウロが語っているのは、能力の高い低いではなく、一人ひとりに神様から与えられた力があるということです。一方で私たちは、与えられた力だけを見るのではなく、他者の能力を比較しがちです。しかし自分が、他者から能力が低いと決めつけられるとどう思われますか?少なくとも良い気持ちにならないはずです。大切なのは、能力を比較することではなく、自分に「与えられた力」に気づくことなのです。

弱い人は必ず受け入れられる

 主イエスが十字架にかかった後、使徒たちは「次は自分たちが十字架にかけられる」と思って逃げ出しました。彼らの恐怖は、彼らの能力が低かったからでしょうか。そうではありません。主イエスは、ご自分の復活を弱い使徒たちに最初に目撃させました。自分の能力の低さに落ち込んだりすることはあります。しかし私たちには、私たちにしか出来ないことがあるのです。あなただけに与えられた神様の力を胸に、春を過ごしていきましょう。

2019年3月 1日 (金)

教会便り3月号

弱さを知る

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 自分の弱い部分を他人に見せることは、滅多にありません。それは家族や愛する人の前でも同じです。なぜなら「弱さ」は、私たちにとって恥だからです。愚痴や弱音を吐くと「甘ったれるな」「我慢が足りない」と、弱い自分が悪いと言わんばかりの答えが返ってくる時代もありました。だから他人に弱さを見せないように、または弱いと思われないように日々を送る人もいます。自分の弱さが他人に見つかりそうになった時は、他人を攻撃したり、自分のテリトリーからその人を排除すれば弱さが知られることはありません。しかし私たちは、弱いのです。どう頑張っても、弱さや限界が必ず私たちのもとへやって来るのです。

神の限界

 今年の教会の暦では、3月6日から大斎節が始まります。大斎節は、洗礼の準備期間であり、イエス・キリストの荒野の誘惑を覚えて過ごす日曜日を除く40日間です。

新約聖書『ルカによる福音書』第4章には、イエスが荒野で40日間悪魔の誘惑を受けられたことが記されています。イエスは神の子ですから、神様の能力を全て持っていらっしゃるはずです。そんなイエスが、なぜ荒野で40日間悪魔の誘惑を受けられたのでしょうか。神様には限界がありませんが、人間には限界があります。お腹が空けば食べたくなりますし、眠くなれば眠りたくなります。また苦しい時に一人で乗り越えられる力があると信じていても、実際は誰かの助けがなければ生きていけません。それが人間なのです。この人間の限界を知るために、イエスは身を持って人間の限界を経験されたのです。つまりイエスは、なぜ人間が弱さを受け入れられないのかを悪魔の誘惑において経験されたのです。これは、見方を変えれば私たちが誰にも知られたくない弱さを神様が誰よりも理解してくださっているということです。

自分に克つ

 人間にとって最大の誘惑は、自分を強いと思い込み、それを誇示することです。一人で生きていける人間こそ強い人間であり、もしそれが正しいのであれば、この世界には強い人間一人だけしか生き残ることは出来ません。それは、自分以外の誰も必要ないからです。しかし現代社会であっても、一人で生きている人はいません。いるとすれば、それは「一人でしか生きられない状態」なのです。誰にも助けを求められない、まさに弱い状態です。私たちは、自分の弱さを強さで覆い隠すのではなく、弱さを受け入れることで他人と喜び合える人生を歩んでいけるのです。

2019年2月 1日 (金)

教会便り2月号

歳をとる

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 1月17日に、神戸で行なわれた阪神大震災追悼礼拝に出席しました。私自身も被災者ということもあり、毎年参加しています。あれから24年の時が経ちました。ということは、24歳以下の人々は阪神大震災を「他者から聞く世代」ということになります。このことを知った時に自分も歳をとったなと思いましたが、同時に年齢を重ねていくにつれ自分が経験したことが過去のものとなっていくことを痛感しました。喪失感に似たこの感覚は、良くも悪くも自分が歳をとった証拠なのだと思います。

 ところで皆さんは、「歳をとる」と聞くと良い意味で捉えますか、それとも悪い意味で捉えますか。

シメオンの願い

 聖書の物語には、様々な世代の主人公たちが登場します。その中でも新約聖書『ルカによる福音書』に登場するシメオンは、聖霊から神様が遣わす救い主と出会うまでは決して死なないというお告げを受けていました。高齢になったシメオンにとって、人生最後の希望は救い主と出会うことだったのです。私たちは、救い主キリストが十字架にかかって死に、その3日後に復活したことを知っていますが、シメオンは救い主がどの様な人物かを全く知りません。それでも彼は、年老いながらも救い主を待ち続けたのです。そしてイエス様が両親によって神殿でささげられた日(被献日)に、彼は希望であった救い主イエス様と出会えたのです。この時にシメオンが語った言葉が「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、僕を安らかに去らせてくださる。」(ルカ2:29)です。シメオンには、長い人生の中で様々な楽しみや希望、使命感があったはずですが、その最後の希望が幼子イエス様でした。しかもイエス様に何かして欲しいのではなく、ただ出会えたことが喜びだったのです。人生経験が豊富なシメオンは、神様からの希望を今まで経験したことがなったのです。

人生の希望

 生活の中で喪失感ばかりが増えていくと、「早くお迎えが来て、ポックリいきたいという望みを持つようになる」ということをしばしば耳にします。人生は長く辛いものかもしれません。しかし希望もあるはずです。希望は、私たちが思い描いたものだけではありません。私たちが想像もしないような希望が何歳になっても必ず与えられているのです。それがキリストとの出会いです。シメオンは、キリストと出会うまで待ち続けました。私たちは、何を待ち続けながら人生の希望を見出せるのでしょうか。

2019年1月 4日 (金)

教会便り2019年1月号

素晴らしいところ

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 先日、TVドラマで主人公が「あなたの凄いところ100個言えます。」と語る場面を見ました。その内容は、挨拶をしてくれる、御礼を言ってくれる、など私たちにとって当たり前のことばかりです。主人公もそのことを指摘されますが、「当たり前のことは凄くないのですか?」と問い返し「当たり前が凄い」という私たちと違った見方をしていることを語ります。私たちの生活において当たり前になっていることの中には、人の凄いところ、言い換えるなら素晴らしいところがたくさんあることに気づかされました。

「当たり前」という呪縛

 新約聖書『ルカによる福音書』第2章8節以下に記されているクリスマス物語では、天使によって羊飼いたちに救い主誕生の知らせが伝えられます。聖書の時代、羊飼いは毎日昼夜問わず羊の番をしなければなりませんでした。羊の食料である草や水を求めて移動するので、定住することは出来ません。ところで、安息日に必ず神様を礼拝するということが当時の法律で定められていました。そのために安息日には、必ず仕事を休まなければなりません。しかし羊飼いたちは、羊の世話を毎日しなければならいので仕事を休むことはできません。つまり法律を守りたくても守れなかったのです。そのため人々は、当たり前のことができない羊飼いを忌み嫌いました。しかし羊飼いたちにとっては、当たり前のことができるということが凄いことだったのです。しかし常識は、羊飼いたちを何一つ守ってくれませんでした。そんな羊飼いたちに、救い主誕生の知らせが最初に届いたのです。

「当たり前」は、時に人を傷つけます。私たちの「当たり前」は、本当に出来て当然のことなのでしょうか。キリストは、当たり前のことが出来ない人々を招きました。つまり私たちの当たり前は、神様にとって当たり前ではないのです。それは「当たり前」ではなく、「素晴らしい」ことなのです。

見つけるだろう

羊飼いたちは、天使のお告げの後に飼い葉桶に寝かされた救い主キリストを見つけ出します。私たちは、素晴らしいものを見つける力を神様から与えられています。しかしその力を「悪い部分」を見つける方ばかりに使っていることがあります。この世の当たり前は、素晴らしいことです。当たり前のことを出来ない人が悪いのではなく、出来るように共に歩むことで素晴らしさは増していくはずです。

私たちに与えられている素晴らしいことを見つける力を、存分に用いることが出来るように2019年を歩んで参りましょう。

 

2018年12月 1日 (土)

教会便り12月号

クリスマスプレゼント

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 「プレゼント」という言葉の価値が少しずつ変わっているように感じるお話を耳にしました。「贈り物(プレゼント)をもらうと、お返しをしなければならない。」「頂くのは嬉しいけど、返すのが大変だから、贈り物はいただかないほうが有り難く思う時がある。」というものです。貰うのは嬉しいけれども、返すのはそれ以上に精神的や経済的な負担が大きいから疲れるということなのでしょうか。こうなるとプレゼントを贈る側も贈られる側もドキドキやワクワクといった感覚がなくなり、誰にも何も与えない方がよいのではないだろうかと考えてしまうかもしれません。

お返し不要のプレゼント

 新約聖書『マタイによる福音書』のクリスマス物語では、東方から占星術の学者たちが、新しい王の誕生をお祝いするために、生まれたばかりのイエス様のもとを訪れます。彼らは生まれたばかりの幼子イエス様に、黄金、乳香、没薬のプレゼントを献げます。しかし聖書には彼らがプレゼントを献げたことは書かれているのですが、イエス様や両親のマリアとヨセフからの御礼があったとは書かれていません。また学者たちは、プレゼントを渡すとすぐに自分たちの国へ帰っていきました。新しい王様にプレゼントしたのですから、何らかの見返りを求めたとしても不思議ではありません。しかも聖書には、これ以降学者たちが登場しませんし、イエス様が貰ったプレゼントをどうしたかということも記されていません。そこに「Give and Take」という考え方はないのです。なぜなら学者たちにとって、この世の苦しみを一人で負う神様からの使命を受けた新しい王であるイエス様がお生まれになったことが、何よりの喜びだったからです。

無償の愛

 プレゼントを贈られるととても嬉しいものです。また贈る方にも喜んでいただけると尚更です。プレゼントは、お互いが喜び合えるために贈る私たちの目に見える愛の形でもあります。幼子イエス様は、私たち人間を苦しみから解き放つためにお生まれになりました。しかし私たちは、幼子イエス様というプレゼントを「お返しをしなければならないから、いらない」と拒否するのでしょうか。イエス様に直接、プレゼントをお返しする必要はありません。私たちに与えられた「苦しみから解き放たれる」という奇跡を信じることで、私たちは既に幼子の愛に応えているのです。

 無償で与えられるものが、自分を苦しみから解き放ってくれるもの、その大きさに気づいたとき、私たちは本当のクリスマスプレゼントの喜びを感じることが出来るのです。

 

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