3.牧師より

2017年5月 1日 (月)

教会便り 5月号

時空を超える力

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

教会の暦で5月25日は「昇天日」です。この日は、十字架の死から復活したイエス・キリストが天に昇られたことを記念する礼拝をおささげする日です(当教会では、5月16日19時より)。「昇天」とは、この世の時間が終わったので「天に昇る」ということではありません。「天」とは、神様が時間・空間を超えて支配される領域のことを意味しています。つまり、イエスは時間と空間を超えて現代を生きる私たちに救いをお与えてくださっているのです。

アウシュヴィッツの痛み

2年前にポーランドへ行ったときのことです。戦後70周年ということもあり、アウシュヴィッツ強制収容所へ見学に行きました。今から71年前のアウシュヴィッツでは、自動車工場で毎日ロボットが車を作っているようにナチス・ドイツの兵士たちによって毎日、ユダヤ人が機械的に虐殺されていたのです。また収容されたユダヤ人たちは虐殺されるだけではなく、虐殺された遺体はすぐに焼却されて、遺骨はありとあらゆる場所に無作為に散骨されました。そのため、今でもポーランド国内のどの土地に誰の遺骨があるのか特定することができないのです。アウシュヴィッツで虐殺されたユダヤ人たちの多くは、死してなお苦しめられているのです。

アウシュヴィッツから車で10分のところに、カトリックのビルケナズ教会があります。この教会には、祭壇にとても大きな鉄の十字架が設置されています。この鉄の十字架は、アウシュヴィッツで71年前に使用されていた鉄を溶かして作ったもので、アウシュヴィッツで虐殺された人々の痛みを、時空を超えてイエスが共に苦しんでくださっていることが象徴されているのです。つまり、ビルケナズ教会の十字架は神様が人間の痛みを、時空を超えて知ってくださっている証拠なのです。

時を超えて

イエスの十字架と復活の出来事は、過去の話で終わっているのではありません。現在を生きる私たちにとって「今」の出来事なのです。イエスが復活後に昇天されたのは、すべての人々が人生の中で経験する痛みを、時空を超えてイエス自身が知ってくださるための神様の業なのです。

2017年4月 1日 (土)

教会便り 4月号

過去・現在・未来

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

先日、ある方がこんなことを仰っていました。「自分の評価というのは、過去に自分が行ったことが『ある時』に必ず現われます。私たちは『その時』を受け止めながら人生を歩まなければならないのです。」過去の自分の言動が、どこかの時点の「今」に自分に現われ、それを受け入れられるか否かによって自分の未来が変わっていくのかもしれません。いわゆる「人生のターニングポイント」です。

塩の柱

旧約聖書『創世記』に「ソドムとゴモラ」という物語があります。ソドムとゴモラという街に住む人々は皆、神様のことを信じないで神様が嫌うことを善いことと思い生活していました。そこで神様は、ソドムとゴモラを滅ぼすことを決意されるのですが、神様のことを信じていたロトという人物の一家だけを助けるために「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。さもないと滅びることになる。」(創世記1917節)と助言し、ロトと妻、そして二人の娘をソドムの街から脱出させます。そして、ソドムの街が天から降ってきた硫黄の火によって滅ぼされます。その時、ロトの妻は神様の言いつけを無視して後ろを振り返ってしまい、塩の柱となってしまったのです。

「振り返る」とは、過去に縛られていることを意味しています。過去、自分が一番輝いていた時代のことを思い出して、談笑することはとても良いことですが、過去の輝きばかりに心奪われてしまい、未来へ進むことが出来ない時。あるいは過去の自分を今へと変化することが出来なくなってしまう時、私たちに待っているのは滅びなのかもしれません。それは、私たち人間が一秒たりとも過去に戻ること出来ないからです。そして、過去の自分の評価が「ある時」自分を襲います。この評価を受け止められるか、という問題に人間は必ずさしかかるのです。

神様の時

しかし、自分の過去の失敗を喜びに変えられる方法が一つだけあります。それがキリストの復活を信じることです。2000年前に死に、3日目に復活したキリストは、時空を超えて、私たちの過去の失敗や欠点を十字架に背負ってくださり、そして、その辛さを死によって討ち滅ぼし、復活されました。この復活の奇跡を信じることで、私たちは新しい人生、新しい自分として再び人生を歩き出すことが出来るのです。つまり、老若男女問わず、誰にでも起こる人生のターニングポイントこそキリストと出会うこと最大のチャンスなのです。そして、私たちは過去の自分に振り返らないで、未来を見つめながら歩むことが出来るようになるのです。過去の呪縛から解放されること。これこそが復活なのです。

2017年2月28日 (火)

教会便り 3月号

黙っていない神

 執事 セバスチャン 浪花朋久

3月1日(水)の大斎始日から大斎節が始まります。大斎節とは、もともと復活日に洗礼を受ける人々の準備期間でした。しかし、ある時代から全てのキリスト者がイエスの荒野の誘惑と十字架を覚えて、復活日までを準備する期間となりました。

沈黙

『沈黙-サイレンス-』という映画が全国で上映されています。原作はカトリック信徒である遠藤周作の『沈黙』です。この物語は、江戸時代初期にフェレイラ神父が日本での宣教活動中に幕府に捕まり棄教(ききょう)したという知らせを聞いた主人公ロドリコ神父がフェレイラ神父を探すと共に、日本の宣教活動を行うために来日する、というものです。しかし、ロドリコが日本で見たものは、キリシタン弾圧下で信仰を守るがゆえに拷問にかけられる人々でした。そして、ロドリコも幕府に捕まり、苦しみの中にある人々が自分の目の前いるにもかかわらず、どうして神様は沈黙しているのか、と祈るのでした。

私たちは、苦しみに合った時にその原因を探ろうとします。「なぜ、自分がこんなに苦しまなければならないのか」と思い、自分を苦しみに追いやった人物や事柄を憎みます。また「自分は神様を信じているのに、どうして苦しみが与えられるのか」と神様を恨み、信仰につまづいてしまうこともあります。現代ではキリスト教迫害ということはありませんが、自分の納得のいかない信仰生活を送らなければならないときに「自分の思いのままにならない」ことへの怒りが憎しみへと変わっていくのです。しかし、神様を信じていても起る苦しみは、あってはならないことなのでしょうか。つまり、私たち人間は生きている限り、様々なかたちの苦しみに必ず合うのです。そして、その苦しみに合うからこそ、イエスは荒野の誘惑を受け、十字架にかかられたのです。

キリストの苦しみ

 神様は、人間が人生の中で必ず苦しみに合った時、自分の力で立ち上がれないことを知っておられます。だから、神様が肉体となったイエスが荒野で40日40夜、断食することで人間の空腹を。十字架にかかることで人間の痛みを。人々からの罵声を受けることで人間の苦しみを神様自身が知ることが出来たのです。つまり、私たち人間の苦しみを神様が一緒に苦しんでくださっているのだから、人生で様々な苦しみに合ったとしても、その苦しみを神様が一緒に苦しんでくださるからこそ、その苦しみに見合った問題の解決が必ず与えられるのです。この確信をもつために私たちは、大斎節にイエスの荒野の誘惑と十字架の死を覚えて、大斎節中の日々を過ごして行ければと思います。

2017年2月 1日 (水)

教会便り 2月号

神様は内!?外!?

 執事 セバスチャン 浪花朋久

23日は節分です。節分と言えば「鬼は外!福は内!」と言いながら、家の内と外に豆をまく、豆まきが連想されます。この豆まきの「鬼は外」は、中国から渡来してきた人々が悪鬼などを追い払うために行った儀式だったそうです。

悪霊と人間

 聖書の中に「鬼」は存在しませんが「悪霊」は登場します。聖書の悪霊は「鬼」のように頭から角が生えているような姿を見せることはありません。悪霊は姿こそ見せませんが、その目的は人間の信頼関係を失わせることです。

マルコ福音書5章1節以下の物語では、レギオンという悪霊が人に取りつき、取りついた人を通して、その関係者との信頼関係を傷つける存在として記されています。レギオンはイエスによって、人から豚に移され崖から湖へ落ちていきました。しかし、この出来事を見た人々は、恐ろしくなりイエスを自分たちの地方から「出て行ってもらいたい」と言い出したのです。ここで言う「恐れる」とは、神の業を見たときに、人間が自分の生活と自分の安全について恐れることを意味しています。つまり、人々は「悪霊は放っておいても問題はないが、神の業は自分たちの生活を崩してしまうのでは?」と恐怖したのです。そのため人々は、悪霊よりもイエスを外へ追い出したのです。しかし、その地方で唯一イエスに従ったのが、悪霊に取りつかれていた人でした。イエスに悪霊から救われた人は、自分の家族に、自分に起こった奇跡をことごとく知らせるのでした。そして、その地方にイエスが神からの救い主だということが広まっていくのでした。

鬼は外!福は内!

私たちが外へ追い出したいものとは、一体なんでしょうか。それは私たちの日常生活にとって、邪魔になるものです。しかし、その邪魔になるものが実はイエスだとしたら、私たちはむしろ「福は外!」と無意識のうちに神を自分たちの外へ追い出してしまっているのかもしれません。悪霊の手口は「自分たちの日常生活を崩したくない」と思った時に私たちの心の中に現われます。自分の日常生活を守る、ということは大切なことです。しかし、生活を守るために誰かを傷つけているとすれば、それこそ悪霊の思うつぼです。自分の日常生活を他者と共に歩んでいける。これが神と人間が一緒に喜び合える神の国であり、福を内に呼ぶ方法なのです。

2016年12月31日 (土)

教会便り 1月号

分断と一致

執事 セバスチャン 浪花朋久

先日、ある学校のクリスマス礼拝に招待されました。この礼拝でお話しされたのが、沖縄でアメリカ軍基地撤廃活動をされておられる方です。この方は「人が集まって何かをしようとする時に、必ず起こってしまうことが分断です」と、活動中に様々な人々の「我こそが正しい」という意見の衝突のために、不必要な争いが仲間同士で起こったことを語られました。「正しいこと」を行なっているつもりでも、自分と全く違う考え方を受け入れられないのが、人間の弱さなのかもしれません。

招きの拒否

新約聖書の中で、イエスはファリサイ派などの宗教指導者や政治家たちから論敵と見なされていました。ファリサイ派たちは、これまで自分たちが正しいと思っていた神様からの教えを利用して、人々から人気を集め、何不自由ない生活を送ってきました。しかし、イエスが人々に、ファリサイ派たちの教えを超える神様からの新しい教えを語っている姿を見て、自分たちの生活が危機にさらされていることを恐れたのです。その結果、彼らはイエスを殺そうと何度も企んだのです。イエスに自分たちの考え方が否定されることによって「自分たちの生活が崩される」と感じていたからです。しかし、イエスがファリサイ派たちに伝えたかったことは「一緒に神様の教えを行なおう」という招きだったのです。つまり、イエスは「立場は違えど、神様が喜ぶために、一緒に生きよう」とファリサイ派たちを招いておられたのです。

誰のために

人間は何かを起こそうとするとき、必ず分断されます。しかし、イエスが行なったのは、分断のままで終わるのではなく、歩み寄ることでした。「自分が正しい」「自分の考えの方が、神様に喜ばれるはず」と思ってばかりでは、何も解決しません。「こうしたら神様が喜ぶと思うのだけれど、あなたはどう思う?」という招きの言葉を掛け合うことで、私たちは神様と人間が一緒に喜び合える世界、神の国へ向かうことが出来るのです。

2017年、私たちは新しい年を歩もうとしています。神様の声を聞くために、他者の想いを聞くことで、喜びが増す1年となるように、歩んでいければ、と思います。

2016年12月 1日 (木)

教会便り 12月号

迫り来る神

 執事 セバスチャン 浪花朋久

教会の暦では1127日から、クリスマスの準備期間である「降臨節(アドベント)」に入りました。「アドベント」には「だんだん近づいてくる・迫ってくる」という意味があります。

「他人」を追い払う

 クリスマス物語の中で、東方の博士たちがヘロデ王の下に来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」(マタイ2:2)と尋ねます。自分より優れた王がこの世に現われるということは、ヘロデの価値観が崩れてしまうことを意味します。そこで、ヘロデがとった行動が、国内の二歳以下の男子を全員殺すことでした。近づいてくる新しい王様が、この世に神様と人々が一緒に喜び合える世界を実現するためにお生まれになった神の子であったとしても、ヘロデは「迫ってくる他人」として、イエスを受け入れることが出来なかったのです。

 同じように、私たちは、自分の全く知らない「他人」が近づいてくると、迎えることが出来ません。それは、心の奥で「他人は自分に冷たく、自分の価値観を認めない存在」だと思ってしまうからです。そのため「出来れば『他人』と関係をもちたくない」と思ってしまいます。しかし、他人は勝手に私たちに近づいてきます。そして、私たちは、その他人を追い払おうとしてしまうのです。それは、自分の価値観や考え方が崩れてしまい、今までと違った生き方をしなくてはならない、と思うからです。しかし、この「他人」こそがイエスなのです。「自分だけが楽しければ良い」と思っていた自己中心的な生き方を、神様と私たち人間が一緒に喜び合える生き方、つまり「他人と一緒に」喜び合える神様中心の生き方へと変えてくださる。そのためにイエスは、この世界にお生まれになったのです。

恐れるな

 ヘロデの様に、自分の生き方や価値観を否定するものを追い払うことで、自分だけが安定した生活を送ろうとすることが人間の弱さです。しかし、神様はイエスをこの世にお与えになることで、価値観や考え方の違う人と一緒に、喜び合えることを私たち人間に教えてくださいました。これが「隣人愛」です。そして、私たちは「他人」を受け入れる準備をする、つまり生き方を変えることを恐れないことが、近づいてくるクリスマスを迎える最高の準備なのです。

2016年11月 1日 (火)

教会便り 11月号

変身願望

 執事 セバスチャン 浪花朋久

 111日は、教会の暦で「諸聖徒日」です。信仰の先達者たちの魂の平安を覚える、言わば「お盆」の期節です。しかし、日本ではあまり馴染みがありません。その反面に「諸聖徒日」の前日であるハロウィンが、世間で人気のイベントとなっています。昨年のハロウィンで仮装するための「衣装代」などの経済効果は、約1200億円と言われています。この数値は、クリスマスの経済効果を遙かに上回るものです。なぜ、人々はそこまでして「仮装」にこだわるのでしょうか。

 近年、人々は「みんなが同じ」という生き方に堅苦しさを覚え「自分らしい姿」で社会を生きたい、という想いがあるようです。言わば「今の自分は本当の自分ではない」という想いから「自分の姿を変えたい」という願いにつながっているようです。

ペトロの変身

聖書の中でも、変身を遂げた人物が多くいます。その一人が、イエスの筆頭弟子であるペトロです。ペトロはイエスが自分たちの王様になり、自分たちの生活をより良くしてくれると信じていました。つまり、自分の生活を第一に考えていたのです。しかし、ペトロはイエスが逮捕された瞬間、イエスを見捨てて逃げ出します。挙げ句「この人は、イエスと一緒にいた」と言われると「私は、そんな人を知らない」とイエスを裏切ります。しかし、復活されたイエスと出会ったペトロは、自分の身を守ることを最優先に考えて「イエスなど知らない」と言っていたのに、今度は「イエスは救い主」だと人々に公言するようになったのです。復活のイエスとの出会いによって、ペトロは自分中心の生き方から、神様中心に生きた方へと変身したのです。

今だ!変身だ!

TVのヒーローたちは、ピンチの時に変身して悪者たちをやっつけてくれます。私たちにとって、人生の中のピンチの時は「生き方」を変えるための「変身」の最大のチャンスの時でもあります。「変身」とは、姿形を変えるのではなく、自分中心の生き方から神様中心。つまり、自分だけではなく、自分と人々、そして神様とが一緒に喜び合えるように生きていくことです。そうすることによって、私たちがピンチの時にいつも、神様が助けてくれる確信を得て生きていくことができ、自分ではなく、神様が私たちを守ってくれる安心感の中で、生きていくことが出来るのです。

2016年10月 2日 (日)

教会便り 10月号

イエス探し

 執事 セバスチャン 浪花朋久

 皆さんは「イエス様は、どこにいる?」と質問されたら、どの様に答えるでしょうか。「教会にいるよ」と答えれば「イエス様は、教会という建物の中にしかいなのか」と思われますし、「みんなの心の中にいるよ」と言えば「じゃあ、なんで教会に行くの?」と聞かれるかもしれません。この質問の答え、実は、先のどちらも正解なのですが、イマイチ理解しがたい答えです。漠然とした答えかもしれませんが「色んなところにいる」というのも、一つの正解です。イエス様は、色んなところにいるけど、イエス様に感謝の祈りをおささげする場所が「教会」なのです。

 

ポケモンGO

 7月末に「ポケモンGO」というゲームが話題になりました。自分たちが住む街にいる「ポケモン」と呼ばれるモンスターたちを捕まえるゲームです。多くの人々がこのゲームで、自分たちの街を歩き始めました。「ポケモンGO」をする人々は「自分たちが住んでいる街のどこかにポケモンがいる」と思うと、ワクワクしながら、喜んでポケモンを探しに行きます。

イエス様も私たちの住んでいる街の中におられます。そして、私たちを苦しみから立ち上がらせてくださるため。また、私たちの生活に喜びを与えてくださるために働いておられるのです。しかし、私たちは、そんなイエス様に気づくことなく生活しています。そして「イエス様は○○にしか、いない」と思い込んでしまっているのです。

 

さぁ、出かけよう!

「イエス様は、色んなところにいる」だから、私たちはイエス様が、私たちの生活の中でしてくださる、様々な業や恵みを私たちの街の中に探していくことで、イエス様を見つけることが出来ます。そして、私たちの生活の中で働いておられるイエス様と出会う喜びを、誰かに伝えていくことで、教会で感謝の祈りをおささげることの素晴らしさをより多くの人が知るようになり、私たちも言葉にならない、喜びの中にある教会生活を送ることが出来るのです。

「ポケモンGO」ならぬ「キリストGO」とは言いませんが、イエス様を探しに街の中へ出かけて行ってみませんか。

2016年8月29日 (月)

教会便り 9月号

泣きなさい

 執事 セバスチャン 浪花朋久

 漫画『ドラえもん』の中に「のび太の結婚前夜」とう物語があります。大人になった主人公・のび太くんとヒロイン・しずかちゃんが、結婚する前日のお話です。

物語の終盤、マリッジ・ブルーとなったしずかちゃんは「パパが寂しくなるからお嫁に行くのをやめる。」としずかちゃんパパに泣きつきます。そんなしずかちゃんに対して、しずかちゃんパパは「しずかちゃんと自分が一緒に過ごしてきた思い出があるから、寂しくない。」と諭します。そして、最後に「のび太くんを選んだきみの判断は正しかったと思うよ。あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことができる人だ。それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね。」と、のび太くんの良さをしずかちゃんに伝えるのでした。

 この物語は、1999年に映画化され、映画館で見た中学3年生の私は、恥ずかしながら感動のあまり号泣しました。

遠慮しなくていい

 実は、しずかちゃんパパの言葉と非常によく似た言葉が、聖書の中に記されています。それが「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。(ローマの信徒への手紙1215節)」という使徒聖パウロの言葉です。この言葉を『ドラえもん』の作者、藤子不二雄が参考にしたのかは定かではありませんが、人間は誰かと一緒に喜ぶだけではなく、一緒に「泣くこと」ができます。それが人間にとって、最高の幸せなのです。

 辛いとき、私たちは大切な人を心配させまいと、泣くことや弱音を吐くことを遠慮してしまいます。しかし、考えてみてください。泣きたいときに、遠慮無く一緒に泣ける相手がいれば、どれほど心強いことでしょうか。大切な人だからこそ、私たちの悲しみを一緒に泣いてくれるのです。しずかちゃんにとって、のび太くんはまさに一緒に悲しんでくれる大切な人だったのです。

最大の理解者

 「大丈夫じゃない!」と言えることは、最大の安心感です。それを家族や友人、愛する人に言えない時は、神様に向かって叫んでみてください。その時、神様はあなたと一緒に大声で泣いてくださり、あなたを悲しみから解放してくださいます。

2016年7月 1日 (金)

教会便り 7月号

思い出の歌

 執事 セバスチャン 浪花朋久

 「戦時中、朝鮮にいた時に学校で小学唱歌の「高嶺」をよく歌った。戦争へ向かう中、勢いのある曲ばかりが歌われていたのに「高嶺」だけが穏やかな曲調だった。調べてみると、あの曲は聖歌だ、ということがわかった。」

 このようなことを、先日ある方から教わった。「高嶺」はプロテスタントで用いられる『賛美歌21』に収められている「天のみ民も」という曲である。聖公会の聖歌集には、入っていないので、我々にとってなじみのある聖歌ではない。同曲は「聖歌」というよりも、むしろ「小学唱歌」として有名になった。しかし、先程の方が仰ったように、どうして時の文部省が、戦時中に敵国の宗教が作った歌を「小学唱歌」として採用したのだろうか。

迷った国を導いた聖歌たち

 明治5年から始まった学校教育「学制」の中に日本で初めて「唱歌(音楽)」の授業が取り込まれた。しかし、当時の日本は「音楽」に関して遅れをとっていたために「唱歌」を教えられる教員がいなかった。そこで文部省は、アメリカで小学唱歌を初めて取り入れたルーサー・W・メーソンを招聘した。メーソンは、青年時代に宣教師を目指していたことから、音楽を通して宣教の手助けをしたい、と考えていた。そこで彼は、明治15年に発行した『小学唱歌』に15曲の賛美歌を取り入れた。その中に「高嶺」が収録されており、日本人は知らず知らずのうちに、神様を賛美する歌を口ずさむことになったのだ。メーソンが発行した『小学唱歌』は、戦時中の日本の音楽教育から現代まで、影響を与えたのだ。

聖歌は「祈り」

戦時中、野外活動で疲れ果てた生徒たちが、その帰路で小学唱歌を歌いはじめると、その疲労が取り払われる思いだった、という手記が残ってるように、「高嶺」を初めとする聖歌は、子どもたちの心の支えとなった。

歌は、人生の疲れや迷いのある時の道しるべとなる。私たちが、礼拝で歌う「聖歌」も、単に「歌うだけの曲」ではなく、その歌詞に、曲調に祈りが込められている。言葉足らずな、私たちが祈りの内容に困っている時に、好きな聖歌を歌うことで、神様は、私たちの心の叫びを聞いてくださるのだ。

より以前の記事一覧