3.牧師より

2018年6月 1日 (金)

教会便り6月号

時代の流れ

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 時代が進むにつれ、過去に「良い」と思われていた医学的知識の中に間違いがあることがわかったと、最近のテレビ番組でよく言われています。例えば、擦り傷ができたら傷口を乾燥させてかさぶたを作ればすぐ治るというものですが、これは現代では間違いとされ、傷口を潤す方が良いとされるようになりました。医療だけでなく教育や保育などにおいても、時代が進むにつれて「良い」ことが進化していきます。現代で新しい方法が見出され、それまで自分が疑いもなく「良い」と思っていたものがなくなっていくのは、何故なのでしょうか。

神の宣教

 教会においても、時代が進むにつれ多くのものが進化し、その中でも「神様はどこにいるのか」という考え方が大きく変わりました。20世紀以前、教会は「神様は教会から世界へと働きかけておられる」と理解していました。つまり教会が神様からの特別な存在として理解されていたのです。しかし20世紀に入った頃、神様は教会の外で苦しんでいる人のために自ら働いておられるということがわかり、「教会は神様が造られた世界の中の一部」であると、それまでと真逆の理解がなされました。つまり神様は教会だけにではなく、教会と世界に働きかけられ、教会は神様にだけではなく、神様と世界に働きかける場所と捉えられるようになりました。この理解によって、教会は「人が救いを求めに来る場所」から「人を救いへと招く場所」へと変化していきました。恐らくこの転換期にも、「私たちの時代は違った」という過去に経験を積んだ人々と新しい時代の人々との間で、意見の衝突があったと思われます。この問題をどの様に解決していったか定かではありません。

「良い」とは

 私たちが「良かった」と思うものが後世に残らないのは、何故なのでしょうか。旧約聖書『創世記』に記されている天地創造物語で、神様はご自分が創造された世界をご覧になった時に「それは極めて良かった」と語られました。この極めて良い世界は未だに続いています。どれだけ時代が進んだとしても、自分にとって「良い」ものではなく、神様が「極めて良かった」と思われるものを残すことが私たちの役目なのかもしれません。そのためにも私たちは自分が思う「良い」ものを残すのではなく、全ての人々が「良い」と思えるものを残すことが大切なのかもしれません。読者の皆様はどう思われるでしょうか。

2018年5月 1日 (火)

教会便り5月号

その声を聞く

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

五月になると「五月病」という言葉をよく耳にします。症状は人によって様々ですが、睡眠障害や免疫力低下といった症状も報告されています。このことからも五月病は、一概に「気分の問題」ではないということがわかります。一方で五月病は、聞く人によって「放っておけばすぐに治る」と楽観視されてしまい、本当に辛い気持ちであったとしても、自分の辛さが認めてもらえないこともあるようです。

「辛い」という一声を発する側にはかなりの勇気が必要です。しかし聞く側はその勇気に気づかない場合があります。私たちにはこの「他者の苦しみ」を理解しようとするための「聞く」力が乏しいのかもしれません。

聞いてもらえる喜び

新約聖書『マルコによる福音書』に、バルティマイという盲人のお話があります。聖書の時代、目が見えない人々は仕事に就けず、道端で物乞いとして生活する以外に方法がありませんでした。しかし誰も望んで盲人になるわけではありません。バルティマイも目が見えるようになりたかったのです。そんな時に、イエス・キリストが自分の近くを通ることを知ったバルティマイは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」(マルコ10:48)とイエスに大声で助けを求めます。多くの人々は、バルティマイの行動を良く思わずに彼を叱りつけます。人々にとってバルティマイの叫び声は邪魔だったのです。しかしイエスだけはバルティマイの声を聞き、バルティマイを近くに呼び寄せ、彼の願いであった「目が見えるようになる」生活を与えられたのです。その時バルティマイは、唯一の財産であった上着を脱ぎ捨てるほど喜んだのです。声を聞いてもらえることすら困難であったバルティマイにとって、自分の苦しみをただ「聞いてもらえる」と確信したことが何よりも喜びだったのです。

神に遣わされた人

 自分が「苦しい」「辛い」ということを他者に語ろうとする時、「放っとけば大丈夫」「我慢しろ」など、発言者の勇気が全く受け止められないのは何故でしょうか。この様な答えが返ってくるかもしれないと思って、自分の辛さを表沙汰に出来ずに苦しみ続けてしまって良いのでしょうか。イエスは人々から声をかけることを拒まれたバルティマイの声を聞かれました。私たちが誰かに助けを求められるのは、私たちがその人から信頼されているからです。つまりその声を聞いた私たちは、その人にとって神から遣わされた唯一の救いなのです。

一方で弱音を吐く相手がいないと思う方もいると思います。あなたの近くにその弱音を受け止めてくれる人は必ずいます。その人が、あなたにとっての救いであるのかと躊躇されるかもしれませんが、その人があなたを救いへ導く神様からのみ使いなのかもしれないのです。

 

2018年4月 9日 (月)

地震経過

4月9日(日)午前1時32分に発生した地震は浜田市内でも震度4を観測されました。幸い当教会や近隣に被害はありませんでした。

 

2018年4月 1日 (日)

教会便り4月号

新たなる希望

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

春になり、新しい生活をスタートされる方も多いと思います。新しい生活の中には、私たちが今まで知らなかったことや快く思わないことを受け入れなければならない現実が待っていることもあります。先日あるTVドラマで、登場人物が「私は今まで自分が知らないことを排除することで生きていました。」と語る場面を見ました。知らないものを排除することは簡単です。どれだけ時代の波に乗った考え方でも、今までの自分を変えることが面倒なので「知りたくない」と思ってしまうのは、人間の弱さでもあるのだろう、と考えさせられる台詞でした。

嫌なものを排除する

 聖書の中でも嫌なことから逃げようとする人々が多く登場します。その最たる例がイエス・キリストが直接任命した弟子、使徒たちです。使徒たちは自分たちを救いへ導いてくれると期待していたイエスが逮捕され、十字架にかかって死刑となったことを目の当たりにしました。しかし彼らは人々から「イエスと一緒にいた」と知られると、自分たちも拷問を受けて殺される、と恐れたのでイエス様を見捨てて逃げ去ったのです。そしてイエスの十字架の死から3日間、家に鍵をかけて隠れていました。使徒たちにとってイエス不在という新しい生活は、イエスを見殺しにしたことと自分たちが殺されるかもしれない、という受け入れたくない現実から始まったのです。しかし、彼らの前に復活したイエスを目撃したマグダラのマリアから「ガリラヤへ行くように」に伝えられます。彼らがガリラヤへ行くと復活したイエスが待っていたのです。そして、世界中にイエスの教えと人々に洗礼を授けるという使命を使徒たちに与えられたのです。このようにして、使徒たちは受け入れられなかった現実を受け入れ、死を恐れない新しい自分として新生活をスタートさせたのです。イエスを見殺しにした使徒たちにとって復活のイエスとの出会いは、自分の弱さを受け入れるという新たなる希望を持つことだったのです。

新しい自分へと復活する

 新生活は希望と期待が大きい反面、その反動も大きい場合があります。しかし恐れることはありません。新しい生活で出来ないこと、受け入れられない現実に直面した時こそ、私たちは新しい自分へと変えられるチャンスの時なのです。そこで自分の弱さを排除せずに、受け入れましょう。使徒たちが自分たちの弱さを排除しながらも、イエスが受け入れてくださったように、あなたを受け入れてくれる人は必ず存在します。この新たなる希望を胸に新しい生活を歩んでいきましょう。

2018年3月 1日 (木)

教会便り3月号

大斎節

司祭 バルナバ 瀬山会治

 大斎節は、元々その年の復活日に洗礼の恵みを受ける方の準備として、また罪を悔い改めた人の学びと霊的成長のために守られてきましたが、すべてのクリスチャンにとっても重要なこととして教会は古くから大斎節を守ってきました。なぜなら、大斎節には、自らの信仰、つまり、神様とわたしの関係を見つめ直し、さらなる信仰的な成長を果たすことが、その目的とされてきたからに他なりません。走り続けている生活では、なかなか立ち止まって考えることは難しいものですが、一度、止まって周囲を見回すと思わぬ神様の恵み、信仰の喜びを発見するものです。

いのちの水

 一人の旅人が「いのちの水」を求めて旅をしていました。いのちの水を飲むと永遠のいのちを手に入れることができると聞いたからです。その旅人は戦士でした。彼はいのちの水は、強い力によって守られていると思い、いつでもどんなに強い敵とでも戦えるように強固な鎧を身に着け、よく切れる剣を携え、力ずくで命の水を手に入れるつもりでした。しかし、長い旅をし、苦労してやっとたどり着いた「いのちの水」が湧き出る泉を見たとき、彼は驚きました。いのちの水は力づくで勝ち取るものではなかったからでした。その水は何の囲いもなく、見張り役の番兵もいない、小さな泉から湧き出している水だったからです。ただ、湧き出る水を飲むためには、かがまなければなりませんでした。けれども、戦士は鎧が邪魔をして、ひざを落としてかがむことができませんでした。そして、そのとき彼は気づいたのでした。永遠のいのちを手に入れるためには、強い力は必要ではないと言うことを。そして、謙虚な気持で神様のみ前にひざまずくことが大切であると言うことを。

お礼のことば

 2年間と言う短い間でしたが、浜田基督教会の管理牧師をさせていただき、お世話になりましたことをお礼申し上げます。しかし、同じ山陰伝道区ですし、聖バルナバ保育園の行事などでこれからも訪れさせていただきます。ですから、悲しいお別れと言うことはありません。むしろ、この私の母教会であり、両親や親族の遺骨もありますので、これからも皆様方には、いろいろとお世話になることがあろうかと思います。最後になりましたが、皆様の上に神様の祝福が豊かにありますようお祈りいたします。

2018年2月 1日 (木)

教会便り2月号

現代の荒野

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

毎年2月14日はバレンタインデーですが、今年の教会の暦では大斎始日となりました。「大斎節(四旬節/レント)」とは、復活日(イースター)までの日曜日を除く40日間、心の準備期間として守られます。また大斎節でもう一つ覚えなければならないことは、新約聖書マタイによる福音書第4章に記されているイエスの荒野の誘惑です。「荒野」とは広い砂漠を意味しますが、聖書の荒野はサラサラな砂がある「砂漠」ではなく、地面に水分がないカラカラの状態で雑草すら生えない環境のことです。辺りにあるのは岩ばかりで言わば「何もない世界」です。

何もない世界

 イエスはこの荒野で40日間断食されながら、悪魔から誘惑を受けられました。悪魔は断食しているイエスに対して「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と誘惑します。イエスは神様の力を持っているのですから、腹が空けば石でもパンに変えられる力はあったはずです。まして「何もない世界」である荒野で飢えを覚えているのですから、自分以外に救いはないはずです。しかし、そうされなかった。なぜでしょうか。その答えが「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ3章4節)という言葉です。腹が減って動けず、誰も助けてくれず、自分で自分を救えない。この人間の限界を神の子イエスは経験されたのです。この限界の中でもイエスは自分のために神様の力は使わず「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と語られました。つまり、八方ふさがりになった時こそ神様に頼ることを選ばれたのです。

人間の限界

人間は「何もない世界」では自分を救うことは出来ません。これが人間の限界です。しかし、この限界の時にこそイエスの荒野の経験を通して人間の苦しみを知った神様が私たちを必ず助けてくれるのです。

 今の生活の安定。将来の不安。また自分の不安を共感してもらえないことなど。この世は荒野ばかりです。この荒野を一人で乗り切るのは不可能です。そんな時、私たちは孤独になり心が渇ききってしまうのですが、神様は私たちの不安を理解してくださっているのです。自分自身ではなく神様に頼りながら生きる。この生き方によって、私たちの心は神様によって潤い、現代の荒野を乗り切ることが出来るのです。この想いを胸に大斎節を過ごしてゆきましょう。

2018年1月 4日 (木)

教会便り1月号

新しい年・新しい自分

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 新年を迎えると「今年の目標は?」という質問をすること、されることがあると思います。新しい1年の始まりに「今年こそは!」と、新たな自分になろうとする姿勢なのかもしれません。しかし、私たちは新しい自分になろうとしても「○○であるべきだ」という「常識」にとらわれてしまい、結局新しい自分に変わることが出来ないこともあります。「常識」は秩序を保つために守られますが、常識にとらわれすぎてしまうと新しい自分を見失ってしまう、これでは何も変えることができません。

キリストが生まれた理由

 新約聖書のクリスマス物語で、出産間近のマリアには、安全に子どもを産める場所がありませんでした。「宿屋には、彼らの泊まる場所がなかったから」(ルカ2:7)です。そして、マリアとヨセフがたどり着いたのが馬小屋でした。しかしマリアにとって、この出産するのに不適切な場所が「今」安心できる場所となったのです。このマリアの判断こそ、神様が「今」というタイミングでマリアを導かれるきっかけとなったのです。その結果、この世界に新しい王イエスが馬小屋で産声あげました。そして成人したイエスは、昔から続く神様からユダヤ人に与えられた「律法」に固執された世界で、神様からの新しい教えを語られました。それは、昔から続いた「律法」をなくすためではなく、「完成」するためだったのです。つまり「古き良き伝統」であった秩序が、「新しいもの」に生まれ変わることで神様と人間が一緒に喜び合えるようになる、そのためにイエスは、この世界にお生まれになったのです。しかし当時の人々にとって、イエスの判断はすべて非常識でした。だから、最後は妬みによって十字架に付けられたのです。

常識にとらわれない神

私たちの世界は、神様の目から見れば不完全な世界です。今のままでは、神様と人間が一緒に喜び合える世界「神の国」は完成しません。しかし、私たちは完全な世界へと向かうことが出来ます。それが常識にとらわれることなく、人々が喜ぶことを「今」考え、行なうことなのです。マリアたちの非常識な判断によって、人々を苦しみから解き放つ、キリストという新しい王がお生まれになり、神の国が近づきました。そしてイエスも、当時は「非常識」と思われていた考え方や行動によって、人々を苦しみや悲しみから解放されました。これらはマリアとイエスの「今」の判断が神様によって導かれた結果なのです。

常識や経験にとらわれることなく、神様の時を感じることで新しい自分へと変われるように2018年を歩んでいきましょう。

 

2017年12月 1日 (金)

教会便り12月号

拒否されたクリスマス

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 学生の頃、クリスマス前になると、大学のクリスマス礼拝で奉仕するために学生有志による聖歌隊が編成され、私もメンバーに入っていました。クリスマス礼拝が終わると、私たちはクリスマスの喜びを伝えるために、大学の最寄り駅の改札前やショッピングセンターの広場に向かい、そこで道行くたちへクリスマスの聖歌を歌いました。道行く人々は足を止め、私たちの聖歌を聴いてくださり、拍手をしてくださいます。クリスマスの喜びが伝わったのです。しかし突然、「うるさいから出て行け!」と近所に住む方が怒鳴り込んできました。確かに、近所の方々に許可を取らずに大声で歌っていたので、迷惑をかけてしまったと、その方に謝罪をし、聖歌隊はその場で解散しました。キリストの誕生をお祝いする歌を歌い、道行く人々も喜んでくださっている中での苦情に、「あんな文句を言う人にクリスマスなんて来なければ良いのに!」と若気の至りで文句を言う学生も何名かいました。

誰のためのクリスマス

 「クリスマスなんて必要ない」と思っている人もいることでしょう。この様な声を聞く時、私たちは「クリスマスを楽しめない人のひがみだ」と思ってしまうかもしれません。しかし、新約聖書『マタイによる福音書』のクリスマス物語では、キリストの誕生を拒否した人物がいます。イエス・キリストの時代にユダヤ地方を統治していたヘロデ王です。新しい王であるキリストの誕生を聞いたヘロデ王は、真っ先に新しい王の存在を消すために、キリストの生まれた場所を探そうとします。新しい王の存在は、現在の王であるヘロデの存在を脅かしたからです。しかし、神様は新しい王が誕生するからと言って、ヘロデ王の存在を消そうとはなさいません。むしろ、新しい王の存在をヘロデに教えることで、クリスマスを拒否したい人をも、クリスマスの喜びに招いているのです。神様はクリスマスを拒否した人にこそ、人を愛する喜びを伝えたいのです。

招き、招かれる喜び

 クリスマスを喜べる人は「人生を満喫している人」、「仲間に恵まれた人」だけではありません。マタイ福音書に記されているように、神様は全ての人々にこの世の苦しみ、痛み、悲しみから解き放ってくださる救い主キリストの下へ招いてくださっています。そこには神様を信じているか信じていないかは関係ないのです。この神様の招きの愛のために、私たちも一人でも多くの人々にクリスマスの喜びを伝えようではありませんか。

2017年11月 1日 (水)

教会便り11月号

終わりなき成長

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 日本舞踊の流派の一つに五月流というものがあります。1970年(昭和50年)に創流した流派で、現在三代目家元を務めるのは五月千和加(さつき・せんわか)さん。彼女は21歳で家元になりましたが、その姿は髪の毛を赤く染め、派手な化粧をする、いわゆる「ギャル」なのです。千和加さんは、家元である自分がギャル化粧をしながら五月流の日本舞踊を披露することで、日本舞踊の伝統を「崩す」のではなく、伝統に現代の文化を「加える」ことで、日本舞踊という伝統を更に広げようと考えたのです。しかしギャル化粧で日本舞踊を踊る彼女の姿に、業界の方々からは決して良く見られることはありませんでした。それでも彼女をはじめとする五月流は、日本舞踊という世界に留まらず「現代」という文化に助けを求めることで、新しい伝統を築き上げることができ、現代ではその地位を確立することが出来たのです。

新しい伝統を加えることで、これまで日本舞踊に興味・関心がなかった人々が五月流の門を叩き、現在では300名の門下生が在籍し、活動の幅を更に広げています。千和加さんは伝統を守りつつも、そこから成長させたのです。

既に働くキリスト

 「インカルチュレーション(文化的受肉)」という言葉があります。意味は、様々な文化の中で教会が働く前からイエス・キリストの働きが既に存在している、ということです。神様の救いとは、教会の中に留まっているものではありません。救いが教会の内側だけにあると信じていても、教会は何らのかたちで必ずピンチを迎えます。内側に救いがあるはずなのに、その救いを見出せない、そんな時にこそ、教会の外側で既にイエスが働いていることを知ることが大切です。教会の外側にも神様からの救いが既に存在しているのです。教会も内側だけではなく、外側の救いを経験することで教会の伝統に新しい文化を加えていくことができ、神様によって更に成長することができるのです。

世を愛する神

 教会の中でしか出来ないことは確かにあります。しかし、神様は教会の外に手を差し伸べていない、ということは絶対にありえません。なぜなら「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネによる福音書第3章16節)とあるように、神様は「この世界」を愛されているからです。私たちが生活する様々な場所でイエスは既に働いておられます。そこでイエスと出会った喜びを教会に持ち帰り、皆で分かち合うことで教会は更に成長していくのです。これは人間も同じです。自分の経験の中だけに留まるのではなく、今まで自分が経験したこともない新しいことを「加えて」いくことで、人間は新しい自分へと生まれ変わることができるのです。この成長のためにイエスは既に私たちに働いておられるのです。

2017年9月30日 (土)

教会便り10月号

カウントダウン

 司祭 セバスチャン 浪花朋久

 先日、スーパーへ買い物に行った時に、「広島カープ、リーグ優勝までマジック1」という看板を見つけました。プロ野球のチームが優勝すると安売りをするということです。優勝のタイムリミットは勝利1つ。しかし、天候によって試合が延びたり、負けが続いてしまえば優勝の時間も延びてしまいます。短いようで長い「タイムリミット」が私たちの生活の中にもあるのです。(ちなみに広島カープは9月18日に優勝しました。)一方、人間は生まれたその日から人生のカウントダウンが始まります。若い時は、まだ来ないであろう「終わりの時」を考えずに毎日を過ごしますが、年を重ねることで人生のカウントダウンを意識しすぎてしまうこともあります。

再び来られるキリスト

新約聖書『使徒言行録』第1章11節に、「あなたがたから離れて天にあげられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と記されています。天に昇られたイエス・キリストは、再びこの世界にやってくると言うことです。しかし、それがいつなのかはわかりません。当時の人々は、イエスがいつ来るのか分からないこと対して、自分が生きている間にイエスが再びこの世界に来るのだろうか、と不安を感じるようになりました。教会のリーダーの一人である使徒聖パウロは、イエスが再び来られるときは「盗人が夜やってくるよう」(Ⅰテサロニケ第5章2節)と喩えて、「イエスが突然来る」と人々に伝えています。また、イエスが来られる前に世を去った人々のことについては、「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(同4章14節)と語ります。つまりイエスを救い主だ、と信じて世を去ったとしても、イエスが再びこの世界に来られるときに世を去った人々も復活して、生きている人と共にイエスに出会うことができる、ということです。

「今」と「未だ」の間

 人間は、「今」と「未だ」の間を生きることで自分に必要なことを探します。この間を焦りながら生きる必要はありません。神様は、私たちに準備の時間を与えてくださっています。だからイエスは「まだ」来られないのです。突然来られるイエスを前にしても、「あぁ、これでよかったのだ」と自分だけではなく、他者と一緒に喜び合える人生を送ることが、イエス様に会うために必要な生き方なのです。イエス様が再び来られる日までのタイムリミットを満喫しながら生きていければ、と思います。

より以前の記事一覧