3.牧師より

2020年2月 1日 (土)

教会便り2月号

気づいていますか

  司祭 セバスチャン 浪花朋久

 皆さんは、「マインド・フルネス」という言葉をご存知でしょうか。「マインド・フルネス」とは、気づくことを訓練することです。例えば、物事に対して「気づいていない自分がいる」ことや「何をしているのかわからない自分がいる」ことに気づいていく訓練をすることによって、精神力を鍛えていくようなものです。キリスト教でも「黙想」と呼ばれるものが、それに近いと言われています。聖書のみ言葉を読み、そのみ言葉について思いを巡らすことで、新しい何かに気づくことができるのも黙想の一つの特徴です。

 「気づき」とは、良いものを発見することだけでなく、自分がどのような状態であるかに気づくことも含まれます。つまり気づきとは、「理解していない自分がいる」といった、見て見ぬふりをしていた自分の存在を受け入れることでもあるのです。

理解する力

 ヨハネによる福音書第1章35節以下に、2人の人物がイエス様の弟子になったことが記されています。2人は、イエス様に「どこに泊まっておられるのですか。」と尋ねます。するとイエス様は「来なさい。そうすれば分かる。」と答え、2人はイエス様について行きました。そして2人は、イエス様が泊まっている所を見たのでイエス様の弟子になったのです。ここでいう「見る」には、「理解する」という意味があります。つまり2人の弟子たちは、イエス様がどこにいるのかを理解したので、イエス様の弟子になったのです。また「泊まる」とは、「留まる」という意味があることから、弟子たちはイエス様が自分たちの日常生活の中に留まり、イエス様が自分たちを喜びで満たしてくださる状態、そして悲しい時には誰かが慰めくれるように導いてくださっていることを理解したのです。

彼らの気づきは、イエス様を見ることができない現代の私たちに大きな希望を与えてくれます。何故ならイエス様が、私たちの日常生活の中に留まっていることを証ししているからです。イエス様の存在に気づくだけで、私たちの生活は一変します。イエス様によって喜びは更に増し、悲しみもイエス様が共感してくださるので半減するからです。

旅立ちの言葉

3年11か月という短い間に、この浜田の地でイエス様の力が多くの場所で働いていることに気づくことができました。私は2月末でここを離れますが、イエス様は私たちの生活の中にいて私たちをより良い生活へと導いてくださっています。皆様が、常にイエス様の存在に気づきながら日々を歩んでくだされば幸いです。

短い間でしたが、ありがとうございました。そして、さようなら。

2020年1月 6日 (月)

教会便り1月号

誤解

  司祭 セバスチャン 浪花朋久

 発明家のアルフレッド・ノーベルは、1866年にダイナマイトを発明しました。ダイナマイトは、採掘作業や土木工事の安全性向上を目的として発明されました。しかし1888年、ノーベルの兄が逝去した時にフランスのある新聞社は、ノーベル本人が逝去したと勘違いして「死の商人、死す」と題した記事を掲載しました。そこには、ノーベルが短時間で大勢の人を殺害する方法によって富を築いたと記されていたのです。これを目の当たりにしたノーベルは、自分の遺産の全てを、人類に貢献した人々へ授与する賞を設立するために用いることにしました。それがノーベル賞です。ノーベル賞は、ノーベルの思いが世間に誤解されたことから始まったと言えるのかもしれません。

誤解という真実の恐怖

 私たちは誤解したりされたりすることがあります。誤解は、人々の心の中に真実として記憶されるので、それを解くにはかなりの時間と労力が必要となってしまいます。日本でも未だにキリスト教が、「怪しい宗教」と誤解されることがあります。誤解している方の中には、誤った理解が与えられた可能性もあります。つまり発信する側が正しいことを伝えないと、誤った情報が真実として広がってしまうのです。

 聖書や聖公会で用いられている『祈祷書』ができた理由も、誤解を広めないことが一つの理由です。文字の読み書きができる人が少なかった時代、人々の伝達手段は「口伝」でした。そのため伝える側が、誤解してしまう危険もありました。そこで聖書や祈祷書の著者たちは、キリスト教が誤解されないために、文字に記して後世に伝えようと考えたのです。文字に残された聖書や祈祷書は、時代が変わっても本質は変わりません。しかし今度は、解釈する側に問題があると誤解を広めてしまうという事態が生じました。そのため教会では牧師だけでなく、信徒も誤解を与えないように訓練される必要がでてきたのです。

新しい1年の始まり

 誤解は、する側もされる側も傷つけることしかありません。誤解を与えないようにするために、私たちはよく考え、よく祈る必要があるのです。2020年が誤解のない1年となりますよう、お祈り申し上げます。

2019年12月 1日 (日)

教会便り12月号

新しい王の誕生

  司祭 セバスチャン 浪花朋久

 時折、「多様性」という言葉を耳にします。「多様性」とは、色々な種類や考え方があることを意味します。近年、この多様性が社会的に受け入れられる傾向にあります。しかし自分が無関心なものや今まで知らなかったものが、突然生活の中に現われてしまうことで、困惑してしまうこともあるようです。そうなると「今までと違う」「これは相応しくない」と多様性を排除してしまうかもしれません。もちろん、全てを「受け入れる」ことが多様性ではありません。肝心なことは、なぜ新しい考え方が起こり、この世界に必要となっているのかを吟味することだと思います。

新しい救い

 今から2000年前に、マリアは聖霊によって身ごもり、夫ヨセフと共にその運命を受け入れました。そして生まれてきたのがイエス・キリストです。イエスは、この世の新しい王として、貧しい人や苦しむ人を助け、人々に「互いに愛し合う」ことを教えました。それまでの人々は、「愛し合う」ことよりも「決まりを守る」ことを重視していました。つまり当時の人々にとって、「愛し合う」ことは全く新しい考え方だったのです。時の権力者たちは、愛し合うことを教えたイエスを捕えます。捕えられたイエスの姿を見た人々は、勇ましい王となると思っていた人物が抵抗できないくらい非力であることに幻滅し、イエスを十字架に付けました。しかし神の子であるイエスは、十字架にかかることで人々の痛みや苦しみを、罵声を浴びることで罵られる苦しみを、身をもって経験され、人間のありとあらゆる苦しみに共感しようとされたのです。このイエスの共感こそが、神様が人間に与えられた新しい救いです。だから私たちは、この新しい王様の誕生をお祝いするために、クリスマスをお祝いするのです。

愛と共感

 新しいものを受け入れることは、面倒で負担になります。それは、今のままの方が自分にとって生きやすく、他者を支配しやすいからです。イエスは、この世界に愛し合うという新しい救いを与えるため、そして共感という救いを与えるためにこの世に来られました。今年のクリスマス、私たちはどのような新しいものに共感することでイエスを感じることができるでしょうか。

2019年11月 1日 (金)

教会便り11月号

死と向き合う

司祭 セバスチャン 浪花朋久

 皆さんは、「ホームホスピス」という言葉をご存知でしょうか。この言葉は、病気で末期の状態になった人々が、病院ではなく家の中で人生の最期を迎えたいと考え、一軒家で共同生活を送るサービスのことです。ここでは24時間体制でスタッフが住み込みでサポートしてくださり、病院のように窮屈な思いをすることはありませんし、自由に生活することができます。しかしホームホスピスは、住宅街の中にあることから近所の方々から反対されることもあります。反対意見の一つに「自分は高齢のため、死を意識してしまうので、ホームホスピスが近くにあると早く死ななければならないのかと思うから嫌だ」というものもあります。現代では、死について考える際に「恐怖」が先行してしまうことがあるようです。

恐怖という救い

 キリスト教だけではなく、すべての宗教では、何らかのかたちで死者の魂の平安を祈ったり、お墓を大切にしたりします。しかし死者のために祈る時は死の怖さを感じないのに、どうして死にゆく人を目の当たりにすると恐怖を感じるのでしょうか。どちらも死が目の前にあるはずですが、私たちは死に至る過程を目の当たりにすると恐怖を感じます。

この「恐怖」について新約聖書では、イエス様の業を目の当たりにした人間の反応として「恐怖」が描かれています。しかし、この世から自分の存在が消え去ってしまう恐怖は、すぐにイエス様によって救われる、つまり死後の恐怖がイエス様によって打ち消されるのです。だから私たちは、死後の儀式において恐怖を感じることがないのです。

真の終活

 イエス様は、ヨハネによる福音書第11章において「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」と語られています。自分のことばかりを考えて生きていると、死は恐怖を与えます。しかし死後の世界に、私たちの憩いの場を必ず用意してくださっている神様のことを覚えて生きていれば、死の恐怖に襲われることはないのです。

 近年「終活」という言葉をよく耳にしますが、私たちは財産の整理をする前に、死の恐怖が喜びに変えられるような終活をできればと思います。

2019年10月 1日 (火)

教会便り10月号

感じる力

  司祭 セバスチャン 浪花朋久

 今から5年前アメリカ、ワシントンのある駅で朝の通勤時に一人の青年が約40分間、ヴァイオリンで演奏しました。彼が立った駅は、中流階級の人々が利用する駅です。道行く人々は、音楽などの芸術に耳が肥えていたからでしょうか、それとも通勤時で急いでいたからでしょうか、誰も足を止めて青年の演奏を聞こうとしません。実は、演奏をしていた青年はグラミー賞受賞者のヴァイオリニストで、演奏していた楽器は1つ十数億円とも言われる名楽器ストラディヴァリウスでした。最高の演奏家と最高の楽器を持ってしても、誰もその価値を見出せなかったのです。この光景から、現代において「偉大だから」という理由で私たちの足を立ち止める効果がない、或いは「落ち着いて聞く心の余裕がない」と考えることができます。

正直な心

 新約聖書『ルカによる福音書』第18章に、ある盲人が道で物乞いをしている時に、群衆が通っていく音から「これは、いったい何事ですか。」と人々に尋ねるとイエス・キリストがその道を通られると聞きます。これを聞いた盲人は、大声で「ダビデの子よ、私を憐れんでください。」と叫びます。この声を聞いた人々は盲人を邪魔者扱いしますが、イエスは盲人を呼び寄せて「何をしてほしいのか。」と尋ねます。盲人は、たった一言「目が見えるようになりたいのです。」と願います。するとイエスは、盲人に「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」を語られると、盲人は見えるようになったのです。恐らく盲人は、既にイエスの評判を聞いていたはずです。盲人は、会ったこともないイエスが自分の目を見えるようにしてくれると信じて、救いの時まで自分の心に正直に生きていたのです。

価値を見出せる時

 私たちは、様々な情報からグラミー賞やストラディヴァリウスの価値を何となく理解しています。しかし、実際にその価値を見出すことできません。では私たちは、本当にイエスの価値を見出せているのでしょうか。イエスの言葉に、また「神様に助けてもらいたい」という自分の心の悲鳴に気づいているでしょうか。私たちが「救われたい」と願う時こそが、救われる価値を見出せる時なのです。自分の心に正直に日々を過ごせる安心感を覚えて、日々を歩んで参りましょう。

2019年9月 1日 (日)

教会便り9月号

真のほれ込み

  司祭 セバスチャン 浪花朋久

 「ほれ込み」という言葉を耳にしたことがあると思います。この言葉は、主に恋愛や趣味に没頭する時に用いられますが、「ほれ込み」は、その対象を過大評価することがあります。ほれ込んだものを実際以上に過大評価してしまい、対象の問題を一切受け入れられない状態になるのです。ほれ込んだ対象への愛が深ければ深いほど、対象に問題があっても批判的な意見を受け入れられないので、対象の問題が解決されないのが「ほれ込み」の問題点ということになります。

ほれ込んだ弟子たち

 イエス・キリストの弟子たちも、イエスにほれ込んでいたことが新約聖書を読んでいると分かります。弟子のリーダーであるペトロは、イエスがユダヤ地方の王様になり、ユダヤ地方を支配するローマ帝国から独立してくださると信じていました。しかしイエスは、王様になるどころか十字架にかけられて殺されてしまいます。神様にとって、イエスが十字架にかかることが人間を救うために必要だったからです。新約聖書『マタイによる福音書』第16章では、イエスが、ご自分が十字架にかかることを弟子たちに予告されました。しかしペトロは、イエスから十字架の予告を聞いても「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と逆にイエスをいさめ始めます。このペトロの行動にイエスは、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」とペトロを叱ります。その後、イエスが十字架にかかったことによって、弟子たちのほれ込みは打ち砕かれたのです。ほれ込んでいるイエスの姿と神様から見たイエスの姿が一致していなければ、たとえイエスの救いが与えられていてもそれに気づくことがないということです。

間違いに気づく

 何かにほれ込むことは、決して悪いことではありません。しかし、ほれ込みによって間違いを受け入れざるを得ない場合、大いに傷ついてしまいます。私たちは、自分の弱さや間違いを受け入れることがなかなかできません。しかし間違いを受け入れていくことによって、私たちを如何なる苦しみや悲しみ、痛みからも解放してくださるイエスの救いが与えられていることに気づくことが出来るのです。

2019年8月 1日 (木)

教会便り8月号

変化する意味

  司祭 セバスチャン 浪花朋久

 7月18日(木)に京都市にある京都アニメーションという会社が放火され、34名の尊い命が奪われました。犯人は逮捕されましたが、放火した際に自身も重傷を負い、この原稿を執筆している時点で意識が回復していません。

 平成以降最悪の放火事件となったこの出来事は、当日の内に国内で大きく報道されると共に、世界各国でも大きく報道されました。そして世界の大企業や国連の事務総長からも哀悼の意が表明されました。この出来事から、「アニメ」が日本の文化の一つとして世界に周知されていることが理解できます。一昔前まで「アニメ」は、子どもたちや「オタク」と呼ばれる一部の人々のためのものと認識されていましたが、今や胸を張って「アニメは日本の文化」と言える時代になったのです。

十字架の意味

 あまり良くないと認識されていたものが、人々の心を動かすほどの良いものへと変化していくことがあります。キリスト教のシンボルである十字架もその一つです。新約聖書の時代、十字架はローマ帝国への反逆者を処刑するために用いられると共に、ローマ帝国に反逆を企てる人々への見せしめでもありました。では、なぜ処刑の道具であった十字架が、キリスト教のシンボル、しかも救いのシンボルへと変わったのでしょうか。それはイエス・キリストが十字架にかかったからです。イエスの十字架には、様々な意味があります。その一つが、苦しみや悲しみをはじめとしたありとあらゆる負の感情を、神様自身がイエスの肉体を通して感じることです。神様が私たち人間の、しかも誰にも理解されない苦しみや悲しみを誰よりも理解してくださり、共感してくださるために、イエスを十字架にかけられたのです。だから私たちは、十字架を見ることで自分の苦しみや悲しみから救われる確信を得ることができるのです。これが、十字架が処刑の道具から救いのシンボルへとその意味が変わっていった次第です。

救いのシンボル

 京都アニメーションの事件では、犠牲者をはじめ、事件を知った多くの人々が心に傷を負いました。この心の傷をイエスは十字架によって共感してくださっています。救いのシンボルである十字架を見つめながら日々を歩んで参りましょう。

2019年7月 1日 (月)

教会だより7月号

環境と生活

  司祭 セバスチャン 浪花朋久

 皆さんは、プラスチック問題をご存知でしょうか。例えば、魚が海に流されたプラスチックを餌と勘違いして食べてしまい、更にプラスチックを食べた魚を人間が食べることで、マイクロプラスチックが私たちの体内に取り込まれてしまう、或いは、土に埋めたプラスチックのせいで土壌が汚染されてしまうことなどです。このようなプラスチックが原因となる環境問題は、待ったなしの深刻な状況となっています。

 20世紀に入り、教会はある学者から、人が自分のために自然を搾取することが神様の意志であることから、「環境問題の原因がキリスト教にある」と批判されました。教会はこの批判を真摯に受け止め、旧約聖書『創世記』に記されている人間が「神の似姿」であることに立ち返り、人間と自然界との共存を意識していくように変わろうとしました。しかし今日になってプラスチック問題が話題になっているということは、私たち人間が、神様から義務付けられた自然の管理を蔑ろにしているということになるかもしれません。

支配と管理

 旧約聖書『創世記』第1章に記されている天地創造の物語において、神様は人間をご自分に似せて創造された後に、次のような言葉を語られています。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(1:29)。人間は、神様から自然界を「従わせ」「支配する」ことを義務づけられました。ここでいう「支配」とは、独裁者のような「支配」ではなく、支配を受ける側の世話をするという意味があります。つまり人間は、神様の代わりに自然界を「管理」することを神様から与えられているのです。

神の似姿

 私たち人間は、天地創造の物語にあるように「神の似姿」としてこの世界を歩んでいます。神様が創造されたこの世界を管理できるのは、人間だけに与えられた恵みです。そして「神の似姿」である私たちには、神様の代わりとなってこの世界を美しくできる力も与えられています。個人でできることには限りがありますが、ゴミの分別に気をつけるなど、小さなことからこの世界を美しくしていけるように歩んで参りましょう。

2019年6月 1日 (土)

教会便り6月号

かたちあるもの

  司祭 セバスチャン 浪花朋久

 全国の地下に水道管が設置されて50年以上が経ちましたが、近年になって水道管の老朽化が問題となっています。全国の水道管を整備するのには、130年以上かかると報じられています。設備するために一生懸命になってようやく完成したとしても、形あるものはいつか崩れてしまうのです。

バベルの塔

 旧約聖書『創世記』第11章に「バベルの塔」という物語が記されています。ノアの箱舟の後、人間の数が増え、世界中の人々が同じ言葉を話し、文明が発達してレンガとアスファルトを使うようになりました。人々は「さぁ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。」と語り合い、街に大きな塔を造ろうとします。しかし、これを見た神様が「直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」と人間たちにバラバラの言葉を使わせるようにしたことで、人々はコミュニケーションが取れなくなり、塔の建築を断念しました。

 人間は、自分たちが作り上げた文明や伝統が世々とこしえに残ると勘違いしてしまい、あたかも自分たちが作り上げた文明や伝統を神様と同等に捉えてしまうことがあります。これがバベルの塔が私たちに語っていることです。つまり人間が作り上げる形ある文化、伝統は必ず滅びる時が来るのです。神様は、人間がこの現実を受け入れられないからこそ、言葉を混乱させることでバベルの塔の建設を断念させたのです。

聖霊降臨日

 一方で、新約聖書『使徒言行録』第2章では、イエス・キリストが天に昇られた後、使徒たちに聖霊が降り、様々な国の言葉を話せるようになりました。その結果、使徒たちは言葉によってイエスのことを世界へ宣べ伝えていきます。使徒たちは、初めから教会を建てることを目的としたのではなく、あくまでもイエスのことを宣べ伝えることを目的としました。かたちあるものに限界があるからです。

 私たちは、無意識の内にかたちあるものにすがります。しかしイエスは、目に見えず、かたちもありません。このイエスが使徒たちに聖霊を与えたように、私たちを目に見えないけれども喜べる救いへと導いてくださるのです。

2019年5月 1日 (水)

教会だより5月号

わたしたちの時代

  司祭 セバスチャン 浪花朋久

 「私たちの時代は、こうだった」という言葉を、自分より下の世代の人々への説教で使うことがしばしばあるかと思います。しかし若い世代の人々は、自分たちの考え方こそが正しいと思ってしまい、世代の溝は深まるばかりです。どちらの時代の考え方も「その時」は正しいのですが、「その時」が過ぎてしまうと次の世代の人々へは理解されず、「その世代」の人々にしか適応できなくなってしまうこともあるのだと思います。そして誰もが「私たちの時代」という言葉をもって、他の世代の人々に押し付け合うことで、世代を超えた話し合いができなくなってしまうのではないでしょうか。

今あるもの

 新約聖書『マタイによる福音書』第17章には、イエス様の弟子たちが悪霊を追い出せなかった事に対して、イエス様が「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」(マタイ17章17節)と、時代を嘆かれる場面があります。しかしイエス様は、その後に「昔の方がよかった」ということを仰いません。イエス様は、ご自分がこの世を去った後(昇天した後)、誰も篤い信仰を持てないのではないかと嘆いていらっしゃるのです。つまりイエス様は、「古い」、「新しい」といった次元で物事を見ておられず、「今どの様にするべきか」ということを私たちに語っていらっしゃるのです。

「あれは古い考えだからダメ」とか、「新しい考えは好きではない」といった意見は多くあります。しかし大切なことは、「今」という時代を生きるために何が必要なのかということです。今の時代でも、状況によっては昔の考え方でうまくいくこともあります。また今の時代の感覚でしか考えられない問題もあります。それを判断する力が、「今」を生きる私たちに必要なのだと、イエス様は私たちに語っていらっしゃるのです。

新しい時代へ

 5月1日から令和の時代が始まります。どの様な時代になるかわかりませんが、私たちは「今」を生きています。新しい考え方が多く生まれてくると思いますが、古い考え方の全てが捨てられる訳ではありません。どの場面でどの様な考え方をするのかが、今を生きる最大の力となっていきます。昔と今の調和を実現するイエス様の導きのもと、新しい時代を歩んで参りましょう。

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